いつだったか、紀伊国屋書店で「英語言い替え辞典」という本を立ち読みしたときのこと。そこに「ブス→美に挑戦する人々」(aesthetic challenging person)という表現を見つけて、死ぬほど笑った。言い替えたせいでかえってブスにとどめを刺している。political correctness もここまでくれば正気を失っているとしか思えない。

大学の授業で映画「ベン・ハー」を上映した。途中、ガレー船で奴隷としてオールを漕がされているとき、奴隷頭がベン・ハーをいじめようとして、ドラマー(2つの木槌を交互に叩いて、漕ぐリズムを決める係)に命じてどんどん木槌のテンポを上げさせ、それにつられて音楽も悲壮感をたたえたままどんどんテンポが早くなり、奴隷たちが耐え切れずに次々に倒れて行く。あのシーンと音楽の組み合わせがおかしくってたまらず、こうして思い出している今も笑ってしまう。ドリフで使えるネタだと思う。漕ぐのに夢中になって海賊に襲われるのも間抜けでよい。

あのシーンがおかしいのは、なまじ木槌とサントラを合わせてしまっているからだろう。Emerson, Lake & Permer の「展覧会の絵」で、キース・エマーソンのオルガンに合わせてカール・パーマーがメロディを全部なぞって叩いているのがめちゃくちゃダサいのと同じ原理なのだろうとカネゴンは邪推する。カシオペアのキメがどうしてもコミカルになってしまうのも、きっとそれだ。「美は乱調にあり」の逆ってやつでしょうか。かといって、「格好悪くないだけが取り柄の音楽」というものには興味が持てない。

ああついに偉そうなことを書いてしまう。カネゴンは「名曲には、どこか一箇所必ずダサい(でなかったらキワモノの)部分がある」と信じている。舌触りのよいだけの音楽は、どれほど手間暇かけて完成度を高めても面白みに欠けるように思えてしまう。理論に乗っとって曲を作るときに最も落し穴になるのがこれだと思う。引っかかりが必要なのだ。アカデミックな音楽理論を完璧に備えたミッシェル・ルグランやクインシー・ジョーンズはさすがにそこを心得ていて、必ず巧妙にダサい部分を取り入れている。ミッシェル・ルグランは時々それが過剰になってそこがまた良かったりする。ポール・マッカートニーはそれを無自覚に実践している。ミック・ジャガーは頭がいいからきっとそういうことを意識していると思う。そのダサい部分が、お汁粉に入れた塩のように甘味を引き立てるが、それだけに塩加減が難しい。それが出来るのが名作曲家なのだと思う。バート・バカラックは音楽の作り方がまったく異なり、くさやの干物に最高級のジャムをつけたみたいなところがやみつきになる。(そりゃ黄金比が理解できないわけだおれカネゴン)。

ベン・ハーの後半で、コロシアムで戦車レースをやっているが、カネゴンはこっちは苦手だった。痛そうだからだ。戦車がひっくり返って乗り手がすごい高さでふっ飛ばされ、戦車ごと客席にガンガン突っ込んでいる。どう見ても死人が出ているとしか思えない。ベン・ハーの撮影中、実際に多数の死者を出していたのに、そのことを長らく隠していたのだということを随分後から知った。ローマ法王から祝福された映画だけに、引込みがつかなかったのだろう。ホラー映画とかマッドマックスで「撮影中死んだ奴がいる」という噂がまったくでたらめだったのと逆のパターンか。「子猫物語」で「猫は一匹も殺していません」と宣伝していたのに「撮影中何回やっても猫が川に流されちゃってさー」というスタッフの証言があった(映画秘宝より)。

教育TVで「タルコフスキー」が特集されていて、「惑星ソラリス」の1シーンが一瞬移った。惑星ソラリスといえば、「愛國戦隊大日本」に登場した「ソラリス仮面」だろう。必殺技が「眠くなーる、眠くなーる」。

愛國戦隊大日本」に今更解説は不要なのだが、一つ二つ。「パルナス仮面」というのは、大阪ローカルのCM「ロシアのお菓子パルナス」にかけている。そりゃわからん。こんなローカルネタを持ってくるあたりに製作者の出身地がうかがえる。後、「ウラルより愛をこめて」は、ウルトラセブンの封じられた第12話「遊星より愛をこめて」(スペル星人)にかけている。わざわざ同じ12話に持ってくるあたりに製作者の意地の悪さが感じられる。唯一カネゴンがわからなかったのはドリプシだ。エシャレットも知らなかったカネゴンのこと、勘弁していただきたい。