Bloglinesの登録を半分以下に減らそうと思う。以前のアンテナの内容をほぼそのまま持ち込んだところ、以前はいい加減に上の方から5つ6つ拾い読みしていたに過ぎなかった各サイトの更新分が、Bloglinesでは怒涛のように押し寄せてくるようになって、情報が耳からはみ出しそうになったため【滅私飽食おれカネゴン】。

昨晩寝付けなくて、何とかして眠気を誘おうともがいた末、以前何の気なしに買った、仏陀が直接語ったことを文字にした本 (asin:4003330218)を少し読み返すと、当初は普通のことを普通に書いてあるようにしか思えなかったにもかかわらず、突如「第22章 学問」の内容がカネゴンに不意打ちを食らわせる。大変に耳が痛いというか、数千年の時を越えてこっぴどく叱られたような心持ち【わしらも畏れるおれカネゴン】。原典も完全な状態でないのか、行が重複していたり、小さな矛盾はあったりするけど、それは旧約聖書も同じなので。
翻訳を行った中村元氏の、原典をきっちり現代日本語に仕上げるという気の遠くなるような作業に改めて恐れをなしてしまう【読むのは半端なおれカネゴン】。本人はどんな宗派にも属していなかったとのこと。日本の場合たぶん中国の影響でお経が長らく漢文のままだったので、訳のわからないお題目としてしか響かないのが普通なのだろうけど、東南アジアの大半(と英語圏も)では随分前からこういう経典は日常語として普及定着していると後書きに書いてあった。本人はおそらく探究心の赴くままにこうした作業に熱中するという一番幸せな人生を歩めたんだろうと思う。

それにしても、禁欲を強いるというイメージが未だに強い仏陀が、(巧妙に隠してはあるものの)実はナンシー関にひけをとらないほど頓知の利いた教えを残していたとは夢にも思わず。想像するしかないけど、原文はとてもリズミックなのだろうとも思わせる。もしこれを谷川俊太郎または桑田佳祐クラスの詩人が全面的に書き直したら恐るべきパワーを発揮するかもしれないと夢想してから墜落睡眠【真っ逆様におれカネゴン】。

川内康範と並んで仏教に通じている劇画原作者滝沢解の「女犯坊」という漫画に「貴様らのような禁欲で萎え果てた糞坊主共には一生わからんだろうが、仏は決して去勢された存在にあらず。むしろ仏こそ性欲と精力の最高位なのだ」みたいなセリフがあり、そのことがずっと気になっていたのだけど【しつこい者とはおれカネゴン】、上の本で性欲の滅却がしきりに説かれているのは、性欲を全否定しているのではなく、性欲に限らずそういうものに囚われたままだと本当にしたいことができないままになるからコントロールしなさいということなのだろうかとふと思う。数千年前にはネットもゲームもなかったので、こういうつまづきの元と言えば性欲と博打ぐらいしかなかったのだけど、今ならドラッグやパチスロなどその手の中毒性の高いアイテムには事欠かないので、そこのところを読み替えないといけなかったりして。

仏陀の場合、数学の論文と同じで途中経過がなく結論だけを説いているので、そこにいたるまで強烈な性欲とどうやって格闘したのかはわからずじまい。ケプラーみたいに途中の計算をしくじりも含めて全部残していてくれるとよりいっそう親しみが持てたかもしれない。見ようによっては仕様書とソースが失われたバイナリ状態なのかも。誰かが強力な人間ディスアセンブラとなって結論から途中経過を復元したりしないだろうか。もしかすると仏典が半端でなく多量なのは、当時から人間ディスアセンブラ達が大活躍していたからなのだろうか。

他には、「悪い友達と付き合ってはならない」ということも繰り返し強調されていた。カネゴン自分がその悪い友達だったらどうしよう。

パケットビークル
名前は違ったけど、カネゴンが小4のときにこれと非常によく似たアイディアのシステムを「6年の科学」の特集で読んだことがあった。確か新型交通システムとかいう通産省っぽい名前だったと思うけど正確には思い出せない。ポイントは、観覧車のゴンドラを小さくしたような乗り物(2人乗りぐらい)には動力がなく、道がベルトコンベア状になっていて、今で言うとパケットのように乗り物が運搬されるというもの。コンベアで運転されるので原理的に衝突がありえない。地上に作ると既存の交通機関とかちあうので、モノレールのように道の上を走らせるというプランだったらしい。その特集ではルーティングについてはまったく言及していなかったけど、カネゴンも当時、乗り物が分かれ道に来たらどうやって方向を変えるのかとか、前に乗った人が車内を汚しまくっていたらどうするのだろうとか、車内で男子高校生が暴れたらゴンドラがごろりと転がり落ちたりしないだろうかが凄く気になっていた【後だしじゃんけんおれカネゴン】。