ほとんど誰しも一生縁が切れないのが「劣等感」だと思うのだけど、皆さんはこの劣等感とどう付き合っているのだろう【それが友とはおれカネゴン】。なお、カネゴンは「コンプレックス」という言葉は不正確だと思うので常に「劣等感」と表記するようにしている。
よくできた小説や面白いエッセイなぞを読むと、本人の劣等感を実に上手に見世物にして読者を楽しませていたりする。劣等感というものが多かれ少なかれ誰にでもあるものだから油断しがちなのだけど、こういう方法で劣等感を金目のものに引き換えたり魅力に転じたりすることができる人は、実はほとんどいないということをついつい忘れてしまう。
傍からは「ああいうふうに自分も劣等感を解決できればさぞ快感に違いない」と考えてしまうのだけど、誰にでも安心して薦められる解決法とは到底言いがたい。実際、血の出るような訓練を受けていない一般人が、廃棄のための十分な処理が施されていない劣等感を不用意にそのまま空気中またはネット上にさらけ出すのは非常に危険と言える。
ああいうふうに劣等感を魅力に転じるのは、材料がありふれた劣等感だから誰でもできそうに見えるのだけど、肝心なのは劣等感の方ではなく魅力を作り出すことの方なので、材料が何であっても、それができる人はやはり限られてしまう。
ところで、こればかりは想像するしかないのだけど、それができる人は、傍目からは自分だけが結構な解決法を手にしたように見えても、主観的には果たしてどんな気持ちでいるのやら。
ほとんどの人は、劣等感を根本から解決することも昇華することもできず、多かれ少なかれそれを重たく腹の底に抱えて一生を過ごさねばならない。ついでながら、それを一気に解決してみせると称するものは例外なくイカサマなので相手にしないのが吉【身体で学ぶおれカネゴン】。
しかしその一方で、劣等感は、たとえ少しずつであっても必ず軽減できるということもこれまた忘れがちだったりする。多くの人が「完全になくすことができないなら、わざわざ苦労して劣等感を軽減させたって仕方がない」と安直に考え勝ちなのだけど、この考え方が通ってしまうなら、「犯罪はいくら取り締まってもなくならないのだから犯罪を取り締まったって仕方がない」とか「家をいくら片付けてもすぐ散らかるのだから、家を片付けたって仕方がない」式の考え方もすべて通ってしまうので、最初の考え方に問題があることがはっきりする【片付けせぬとはおれカネゴン】。
色川武大の「うらおもて人生録 (新潮文庫)」より記憶から:

悩みや劣等感にもいろいろあって、アハハと笑って済ませられるものもあれば、じわあっと嫌味なものもある。せめて、自分の悩みや劣等感を、嫌味でないものにしようとする努力は必要なんだな。

今月の日経サイエンスにはいい記事がいっぱいあったのだけど、そのうちの一つを記憶から:

人間などの三原色を感じられる動物より、二色しか感じられない動物の方が、昆虫が葉っぱのふりをしたりする「擬態」を見破る能力が有意に高い。三原色を感じる能力が無条件によいわけではないらしい。

先日NHKを眺めていたら、精神科医のはずの香山リカが夕日をバックに、まるで中学二年男子のような熱心さでジャイアント馬場について語り倒す姿を目撃し、初めて香山リカに好印象を持った。というより香山リカがどんな人なのかそれまでよく知らなかっただけなのだけど。