一瞬立ち寄った本屋で立ち読みした、登山中の気象事故についての本(タイトルは失念)から【情報密輸のおれカネゴン】。

恐ろしいことに、最近の登山客は山中で遭難者を見つけても、自分には助けられないからってスタスタ通り過ぎていってしまうんですよ。登山客の質は明らかに変わっています。

カネゴンが勝手に決め付けたエッセイ系の文章をとりあえず改善する方法:その2。

主流派気分を捨てること

文法的に間違っていないのにさっぱり面白くならない論説やエッセイに共通する特徴として、「自分は主流派であり、そのことは当然である」ということが無意識に前提となっているというのがあるような気がする【責任取らぬおれカネゴン】。こういう文章は、既に貼られている絆創膏の上にさらに絆創膏を貼っているように見えてしまう。この殿様気分から生まれるのはお世辞を前提とした駄洒落のみであり、よい文章が生まれることはないとカネゴン勝手に決めてしまう【中年リベンジおれカネゴン】。ゴーマニズム宣言カネゴンが読む気にならなくなったのは、まさにこの主流派気分が混入した頃からで、そういう意味で主流派気分はエッセイ書きにとって猛毒であるとも言える。
逆にいじけたネガティブな文章であっても同様で、「自分は才能に恵まれない弱者の一人であり、そのことは何らかの形で誰かが償うのが当然の権利である」という考えが底にあるものも同様に面白くなることがない。いじけや敗北が魅力的な文章の一部となる場合もあるけど、そういう文章が面白くなるには相応のテクニックが不可欠であり、その最たるものが(ネガティブな意味でも)マジョリティ気分を捨てることなのだと思う。
重要なのは「『当然と思う』ことをやめる」の方、つまり「他人が大事にしているものを大事にしない」ことであり、何が対象かは別に重要ではなかったりする。単にカネゴンはそういう文章を好んで読んでしまうだけなのですが【浮かばれないとはおれカネゴン】。
しかしながら、他人が大事にしているものを軽率にこきおろすとたちまちメラメラと炎上して骨も残らなかったりするので、ここでこそ(いい意味での)テクニックが必要になる。加える力は同じでも、握りこぶしで相手の鼻をどつけば喧嘩になるけど、相手の膝を自分の膝で後ろからかっくんするとなぜか喧嘩にならない。膝かっくんは、相手も自分も同じく間抜けなポーズになるところがよかったりするからだろうか。

その昔、サックス奏者坂田明が書いたPIL「Flowers Of Romance」のレコード評論はこんな感じだった:

基本的に打楽器と声だけでできたアルバム。打楽器の音を色々と工夫して処理しているが、日本人になじみの深い、和音を使わない演奏形態。音程なんてどーでもいい、という次元で共鳴した。

パンクのことなど何も知らないカネゴンは、坂田明の視野の広さにしびれて思わずこのアルバムを買ってしまった。今でも、こういうのが一番よいレコード評だと勝手に信じている。