カネゴンアイには、水木しげる白川静は本質的に同じタイプの人間として映っているのだけど、前者は

精霊の存在は祭礼や踊りを通じて直接的に感知することができる。決して文字を通じてではない。

http://d.hatena.ne.jp/hachi/20001125#p3

と、後者とほぼ逆の結論を出していたりする【知ったところでおれカネゴン】。

とは言うものの、水木しげるのいう文字は、文字そのものではなくて文章とかセマンティクスとかそういうものを指しているのかもしれない。
さらに、白川静(または取り巻き)に言わせると、古代人の魂を感じるのは古代文字を書き写しているときなのだそうで、もしかすると古代の金文の一つ一つを、ちょうどダンスステップ図とみなし、その動きをペン先で再現することによって古代を実感していたのだとしたら、実は二人は同じ結論に達し、同じようなものを目撃していたということもありかもしれない【fartな理屈とおれカネゴン】。

ウィトゲンシュタインが選んだのが最も苦悩の深い哲学であり、実際彼は哲学を創造する過程でわれわれ凡人には訪れないたぐいの苦悶を経験したからである。哲学は、いってみれば、「自分との対話」といっていい。他の分野なら、「人を感動させる」ことで自分にも満足感が得られるだろうが、哲学はそうとはいえない分野である。そういう意味で、彼は、自分の生い立ちと引き替えに、最も困難な分野でのひどい苦悩を与えられることになったといえそうである。天は公平なのかもしれない。

http://d.hatena.ne.jp/hiroyukikojima/20080305

ウィトゲンシュタインの悩みの内容については避けて通ってきたのだけど、まるでお釈迦様のようなウィトゲンシュタインの人生。不思議に、こういう苦悩に満ちた作業をチームプレイで民主的に軽減しようという話を聞かない【苦労を避けるおれカネゴン】。

NHK色川武大の特集をやっているらしいのを録画し忘れる。
カネゴンとしては、色川武大が真顔で繰り出す類まれなるギャグの数々について言及して欲しいと切に願うのだけど、どうも叶わなさそうな予感。ちょうどこちらのブログで快著「私の旧約聖書」が長めに引用されているのでコピペ【苦労を厭うおれカネゴン】。

旧約が面白いのは、人間が神とほぼ互角にわたりあっていくことなのですね。すこしあとですけれども、イェホバ氏がぐうたらしていると、人間の方がハッパをかけて、「お前さんが何もしてくれないならそれでもいい。そのかわり、お前さんの存在が疑われるのだよ。お前さんは、俺たちを幸せにすることでしか、存在を立証できないのだからね」なんてことをいいだす場面があります。こういうところが、まことにリアリティを感じさせるのですね。そうして、いったん相互契約を結んでしまった以上、浮くも沈むも共同体、という感じがあって、だからこそ、イェホバさんに多少の欠落があっても問題にするに足りません。私のような者が読んでいても、導入部ではいろいろ難癖をつけたくなるのですが、お互いコンビを作ってしまったあとでは、イェホバ氏が何をしようと、神は神、人間は人間、という図式がすんなり納得がいくのです。

http://d.hatena.ne.jp/sun-child/20060430

松本人志あたりからは絶対に出てこない暗黒のギャグセンスだとカネゴンは思うのですが。カネゴンの夢はこれを英訳させて彼の地に火を投じることです。

入門 正規表現(岩谷宏訳)」の書評を読んで思い出す。
カネゴンの職場の片隅に転がっている正規表現の説明(それ自体は別のソフトウェアの説明のほんの一部)はHTMLでさらっと書かれているだけなのだけど、初心者向けの正規表現の説明としてはカネゴンの知る限りたぶん世界で最も簡明でわかりやすく、正規表現をとにかく今使う必要に迫られている人にとってこれほどありがたい存在はないと言ってもよいほど【ないと動けぬおれカネゴン】。
何が違うのかを文章だけで具体的に説明するのは非常に難しく、強いて言うならレイアウトと色使いと言葉遣いとサンプルの選択が極限まで洗練されていて、さらに字数も実に少ない。作った人の底知れない力量と慈愛の心を感じさせる。この言葉に出来ないパラメータの方が、理解のしやすさを大きく助けるものであることを痛感させるのだけど、カネゴン以外の誰もその素晴らしさに感激していない様子。内部資料なので外に公開できないのが実に残念【甘い誘惑おれカネゴン】。