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カネゴンもご多分に漏れず、幼虫(小学校)の頃に宇宙戦艦ヤマトにずっぽりはまっていたことを思い出す【必ずここへおれカネゴン】。
とはいうもののカネゴンは当時からコレクション的な行為が今ひとつ下手糞で、書店で関連書籍を立ち読みしてはスペックや小話を頭に刻み込んだり、ヤマトのストーリーをダイジェストしたカセットみたいな微笑ましいものを聴き込んでサントラを空で覚えたりという、場所と金を使わない方向に行きがちだったりした。
今、3才になった子供がひょんなきっかけでヤマトにぞっこんになってしまい、カネゴンも寝る前に子供に話して聞かせる昔話を急遽ヤマトのスペック解説に切り替えたりなんかしてしまったりするのだけど【治療困難おれカネゴン】、あまりそっち方面に深入りさせたくないという親心からつい途中で心のサイドブレーキを引いてしまう【魔道の入り口おれカネゴン】。
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TVを付けると、これまでちゃんと見たことがなかった「ナウシカ」をやっていたのでそのまま後半を見る【周回遅れのおれカネゴン】。アバターを見た後でも古く感じないほど、映像の一つ一つが今見てもいやになるほど斬新なのだけど、カネゴンが考えていた以上に性的な暗喩が豊富で、子供に見せるのはやめておこうという気にさせられる一品。
別に関係ないのだけど、色川武大がアンクル・トムでSMに目覚めた件について別のところでこんなことも書いていた(カネゴンが多少改訂)。
『アンクル・トムズ・ケビン』なんてのは面白かったな。今でも覚えているが、エヴァという白人の美少女が登場して、心優しく奴隷たちに接する。そのために奴隷たちは制度上の奴隷であるばかりでなく、心までエヴァに捧げてしまうのである。完全に支配するとはこういうことだと、子供の私にだって直感でわかるから、自分もエヴァのようになりたいと思い、なったときのことを空想して、恍惚というものを味わった。
空想というものは、奴隷を所有する楽しさと、自分が奴隷になったときの恐怖とを、一緒くたに味わえるから、一倍コクがあるのかもしれない。で、表向きは正論である奴隷解放をうたいながら、その裏でこのような禁断の楽しみを与える、小説というものはそういうものだという認識を得た。
(中略)
あざといもの、欲望をストレートに表現したものはたいていつまらない。ひとつ上品な仮面を持っている必要がある。
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当時好きだったプログレッシブ・ロックのバンドで、いまだに追っているのは、キングクリムゾンだけである。なぜなら、彼らは(というか、ロバート・フリップは)今でも新しい音楽を生み出しており、単なる懐メロ・ゾンビ・ロックに堕していない。
http://d.hatena.ne.jp/hiroyukikojima/20100213
そのロバート・フリップを(その音楽よりもむしろ方法論を)愛しすぎてしまった平沢進も、幸か不幸か新しい音楽を生み出し続けて今日に至っていたりなんかする。それと比べると、桑田佳祐やポール・マッカートニーみたいに常に同じ種類の音楽だけをずっと作り続ける人の方が一見楽そうに見えてやっぱり楽なのかもしれない。
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カネゴンは色川武大が好きでしょうがないのだけど、残念ながら彼は「才能という病」からだけは自由になることができなかったと今にして思ったりする【四百四病おれカネゴン】。彼の場合ある意味職業病とも言えるのだけど、才能に関して何かを語ることはいつでもウケてしまうがために、それをネタに書き続けざるを得なかった一面もあったかもしれないのだけど。
カネゴンの見積もりでは、才能(体質もここに含める)は、ものごとをなすうえで多くても1/4ぐらいしか貢献しない。1/4は産まれ育った環境と先祖の因縁、1/4は度胸としつこさ、1/4は運【因縁呼ばわりおれカネゴン】。Deterministic factorsというものがありそうでないことを改めて痛感【横文字使うおれカネゴン】。
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いわゆるネットワーク理論で、ノード同士のホップ数が6でたいていのものがつながってしまうみたいなことが言われているのだけど、カネゴンは逆に、6どころか3つ離れただけで、自分とは縁もゆかりもなさそうな人につながっていたりする「遠さ」の方が気になる【ネットの端にはおれカネゴン】。
言うまでもなく脳は巨大なネットワーク構造になっているのだけど、この遠さという特性があるがために、まったく相矛盾することがらを一つの脳にいくらでも問題なく収容できてしまうのではなかろうかと。隣同士のノードでは矛盾は痛みを発するのだけど、ちょっとノードが離れてしまえば互いに相当矛盾があっても痛くも痒くもなくなってしまう。また、そうでないと脳の情報収容能力はてきめんに下がってしまうはず。
脳が、それまで持っていた情報にきっちり整合する情報しか受け付けないとしたら、それはもはや脳たりえないし、例外的な事象に何一つ対応できなくなってしまう。矛盾を平気で受け付け収容する能力こそ脳の活力の根源でありネットワークの本質ということでよいだろうか。
だからこそその副作用として、たとえばニュートンが錬金術にはまっていただとか、SS幹部がこれから処刑するユダヤ人音楽家に名曲を演奏させ、それに心から涙しただとかの矛盾に満ちたエピソードが起こりうるのかもしれない。
脳は矛盾をまずそのまま受け入れ、それらが後に配線の変化などで互いに距離が近くなったときに初めて悩みや苦しみが発生し、何とかしてその矛盾を解消しようとしてもがくのかもしれない。そしてどうにもならないときには、再びちょいと両者の距離を遠ざけてしまえばたちまち楽になり、どんな矛盾でも来るなら来いという感じで今まで通りの日常生活が送れるようになる【苦しうないのがおれカネゴン】。
同じように、自然言語の文法はどれもこれもどうしようもない矛盾を抱えているのが常なのだけど、脳がやさしくその矛盾を受け入れてくれているおかげで何とかやっていけてるのかもしれない。構文解析による機械翻訳がものになりそうにないのは、それが全体としてあまりに整合しすぎているからなのかもしれない。