阿佐田哲也の「麻雀放浪記」は笑い転げながら読んだ覚えがある。寺麻雀で、局が進むに連れて借金のかたに仏像やら木魚やら仏具やらがどんどん積み上がっていくのがおかしくてたまらなかった。阿佐田哲也は、実は笑いのツボを押えるのがとてもうまく、もっとそういうのを書いて欲しかったと思うのだが、回りが「ギャンブル」「純文学」でしか評価しなかったせいなのか、本人もあまりそういうのを書かなかった。デビュー前の変名時代ならそういうのを書いていた可能性があるけど、変名をたくさん使い過ぎて忘れてしまい、本人の手元にすら残っていなかったらしい。せっかく山田風太郎(読んでないけど)の弟子だったのに、何だか残念。晩年の時代ものコメディー(幽霊にとりつかれる話)とか芝居に使えそうなぐらい傑作だと思う。阿佐田哲也のギャンブル小説にユーモアのセンスがなかったら、きっとものすごく陰惨な話になっただろう。

色川武大カネゴンがショックを受けたのは「私の旧約聖書」。キリスト教関係者はもとより、遠藤周作曽野綾子とかにすごくいやな顔をされそうな内容だが、カネゴンが聖書を読もうという気になったのはこの本がきっかけ(卒業してずいぶん経った後で、なぜか新約だった)。単なる挙げ足取りではなく、いい意味で旧約聖書リバースエンジニアリングしている。やっぱりこの人はとっても真面目(本気と書いて「マジ」と読む)だったのだろうと思う。真面目だから不真面目にあこがれるのだろう。不真面目なカネゴンは反省することしきり。