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先日の排中律について、ミュンヘンのゲルベゾル太氏よりお便りをいただきました。ありがたいことです。
ゾル太氏によると、これはまさに「シナジェティクス(Synergetics)」の効果そのものだとのこと。要素が多数ある場合、部分の性質が全体と一致すると限らないみたいな。優秀な社員を集めても馬鹿な会社ができたりするのは、まさにこの現象だろう。逆に一人一人の社員がほどよくユルユルでドキュンでも何故かうまく回る会社なんてものもそうかもしれない(←もしかしてこの現象は生命そのものだったりして)。実は経済学にもこの現象がつきまとうのではないだろうか。何にしろ「悪の枢軸」と呼ばわって止まない彼の国に最も欠けているのはこの視点であるとカネゴン一方的に決め付けることにする。
おりしも「馬鹿」が差別用語の仲間入りをした。カネゴンと切っても切れない属性「馬鹿」には二つの意味があり、そのうちの一つは間違いなくシナジーに由来するはず。従って、カネゴンの部分的な努力はまったく馬鹿の解消に貢献することはありえないことになる【やっとわかったおれカネゴン】。
それはともかく、「部分の品質を高めれば全体の品質が向上する」というのは意外に根が深い迷信ではないかという気がしてきた。部分の属性と全体の属性が線形である現象の方がまれであることは、カネゴンですらすぐ想像がつく。オーディオなんかだと、一番しょぼい部品で全体の品質が決まったりする。自動車なんかでも、最高級の部品を使用してもアセンブリや協調動作に問題があれば、部品の品質に比例はしないだろう。「美人」という概念ですらやはりそうだ。顔のパーツがどんなによくても、並べ方が面白すぎると悲惨だ。でも本当に悲惨なのは「顔が良くて頭が悪い男性」に尽きると思う。
こういうことをまじめに学べるシステム論の本というものはないだろうか【今度はそれかおれカネゴン】。怪しい経営学とか金儲けとかそういうのを抜きにした本は。情報求む。いずれにしろ、そういう学問が辛くも存在しているlことで、カネゴン一生の悲願である「馬鹿の数値化」の可能性が見えてきたような気がする。