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キリストが「私は生命である」と言っていたのは、どういうことなのだろう。カネゴンなりに考えてみた【仕事をせんかおれカネゴン】。
矛盾のないところには生命は生まれない。
逆にいえば、生命はもうそれ自体が矛盾している。
もしこの世界に一つも矛盾がなかったら、そこには一片の生命も生まれなかったと思う。月面みたいな死の世界。
何の根拠もないけれど「生命とは矛盾を糧食として生き長らえようとするもの」と定義してもいいくらい。
ということは、うまい矛盾(=よくできた問題)を作り出せたら、もうそれ自体が生命ではなかろうか。
そこのところを人工生命の研究家とかに答えて欲しいものだ。
キリストが「我は生命である」というのは、解き明かすのに少なくとも数千年かかるようないい問題(=いい感じの矛盾)を作り上げたということなのではないだろうか。
偉大な宗教家とは、(少なくとも)問題を作るのがうまい人。出題者です。
使徒とはヒントを出す人です。知らないので答えは教えられません。
回答者はその他の人たちです。
聖書は問題集です。アンチョコではありません。
運転手は君だ 車掌は僕だ 後の二人は電車のお客。
つまりどこかで数学的な素養が必要になる。必然的にトンチも効いてくる。
すぐ解かれてしまうような浅薄な問題しか作れない場合、それはまともな宗教家ではないし、取り組みがいがあるような問題でなければ数千年にわたって生命を保ち得ない。
なお「問題が生きている」とは、それに心酔して解こうとする人がわんさか群がっている状態。
というわけで、フェルマーはかなり偉大な宗教家だったと思う。
しないに越したことはないのだけど、宗教を見分ける必要がもしあるなら、もうここに着目するしかない。たぶんこういうことをしているからカネゴン帰依できないのかもしれない。
だから、宗教家には「問題を下さい」と言うのが正しい態度で、「かわりに解いて下さいというのはもっての他。
だから、「かわりに解いてやる」という宗教(現世利益)はもうそれだけでだめ。
だから、使徒に向かって「何で答えを教えてくれないんだ」というのも間違っている。知らないから使徒をやっているのだし。
だから、宗教家に向かって「何で答えを教えてくれないんだ」というのも見当違い。リーマンがリーマン予想の答えを知っていたはずはないけど、答えを知らなくても問題は出せる。
キリストが「我は地上に火を投げ込むために来た」(だったっけ)というのは、要するにいい問題ができたからやってきたということだと思う。
やっぱりカネゴンの取り組み方自体、何か根本的にずれている【今頃気付くおれカネゴン】。気を悪くされた方がいたらすみません【だったらはなからおれカネゴン】。