マトリックス」の裏切り者役のサイファーが、「自由を求めてここ(リアルワールド)に来たはずなのに、朝から晩までモーフィアスの言いなりだ」みたいなことを言っていた。「出エジプト記」もつまるところ、エジプトで奴隷のままでいるか、エホバに従って荒野で苦労するかの2つに1つしかなかった。一時期オープンソースが「自由」とごっちゃにして語られていたけれど、ライブラリやインフラが充実するにつれてプログラミング上のしがらみは増える一方なわけで、結局何か(qtとかGTKとかKDEとか)に帰依しないといけなくなる。最近下火のGNOMEKDE主導権争いは正しく宗教戦争だったということなのだろうか。どこに行っても完全な自由というのはありえないことを痛感。自由を数学的に厳密に定義しようとしたら、8/2の日記でカネゴンがほざいた無限階ホワイトノイズみたいなものにたぶんなってしまうだろう【仕事が迫るおれカネゴン】。自由という言葉が、そろそろ時代遅れにならないだろうか。