先日検索で見つけた本田成親氏の「確率の悪魔」は、カネゴンの期待どおりここ最近で最も刺激的な科学啓蒙書。著者の文体は努めて平易さを保つことに苦心した跡がうかがえ(過激な主張を好まない方と推測)、重要な部分を辛抱強く繰返し記述しているので、もしかしたら地味に見えてしまうかもしれないけど、内容は(少なくともカネゴンにとっては)かなり恐ろしい。その辺の新聞や小論文で見かける「これについて私たちはもっと考えなければいけないのではないか」と肝心なところで寸止めを食らわせた文章と違い、そこから先をまともに考えた稀有な本。事実この本では一度もこの寸止め的言い回しを使っていないので、自動的に厳しい結論が生じている。コミュニズムとか半端な哲学とかに毒されていないのもいい【半端でごわすおれカネゴン】。

著者は、確率という強力な方法論に本質的につきまとう限界について繰返し述べながら、「科学においては(そして科学以外の人間の営みすべてにおいても)認識が最も重要である」とも繰返し書いていて、期せずして色川武大と同じ知見に達していた。Aクラス麻雀または私の旧約聖書と併せて読むとさらに驚きがあるかもしれない。ただ色川武大は「認識の出発点としたのは東京大空襲の翌日に《何が起こってもこの地面だけはなくならない》と確信できたこと」だったのに対し、科学的方法にきちんと通じている著者の認識はもっと厳しい。

どうやら、抽象というのは本質的に対象を「なめてかかる」ことであり、それでいてその抽象がなければ人は一歩もその場を動けないということなのかもしれない。どんな人もどこかで何かを「なめてかかる」ことを避けて通れないことを改めて痛感【興奮するとはおれカネゴン】。そしてやはりカネゴンの確信どおり、みんなが本当に欲しいのは予知能力であることも痛感。また、科学するということは究極には「自分が何が欲しいか」という願望をはっきりさせると同時に「何をすっぱり切り捨てるか」をもはっきりさせることであり、願望抜きの客観的な科学などありえず、経済学や社会学のように研究者自身が対象に組み込まれている学問ほど面白いように予測が外れるとも。本書では触れていないけど、あの聖ペテルブルグのパラドックスは、人間の願望を抜きにした確率というものが現実と大きく乖離することがあるという本書の主張の好例となっている。

著者は「予測というものは本質的に外れるものであるが、だから予測に意味がないということでは決してなく、外れるということにも重大な意味がある」「そのことを自覚しない科学者および科学信奉者は危険極まりない」と主張すると同時に、「科学には(そのことを自覚した門外漢からの)ツッコミが必要だ」という意味のことも書かれていて、カネゴンは即座に藤子・F・不二雄を思い出す。新しい方法論や道具が登場したときに、それらが思いもよらぬ使われ方をすることはよくあることなのだけど、それを事前に予知できる者こそ真の予言者なのかもしれないと。