間違いだらけの英語科学論文を読んでいて、むしろ日本語であいまいさのない文章を書くときの役に立ちそうに思えてくる。andとorという概念が日本語における概念と必ずしも一対一に対応していないという記述にぞっとする。

よく「日本語は論理的でない」みたいなことが鼻息荒く数年おきに言われるけれど、既に数年おきに否定されているように、何語であってもいくらでも非論理的な文章は書けてしまうみたい【最もそうとはおれカネゴン】。論理的に書くトレーニングと言語は別のものであることを痛感。

その一方で、論理的であることは常に非論理的であることより優位なのかどうかということをつい考えてしまう。橋本治の文章が面白かったのは、論理的だからではなく、論理の合間に挟まれた跳躍がものすごく独創的だったからだと思う。ネットでよく見かける単に論理的なだけの文章や、恐ろしく一般性/抽象性の高いコンピュータ言語には、きれいに片付けたのに誰も遊びに来てくれない客間みたいな寂しさがどこかしら漂ってしまうのも確か。清潔を無理に保とうとして手段と目的が逆になることを避けるには、使えばどうしても汚れざるを得ないことを覚悟するしかないのかも【それでもケチケチおれカネゴン】。