川内康範と並んで仏教に通じている劇画原作者滝沢解の「女犯坊」という漫画に「貴様らのような禁欲で萎え果てた糞坊主共には一生わからんだろうが、仏は決して去勢された存在にあらず。むしろ仏こそ性欲と精力の最高位なのだ」みたいなセリフがあり、そのことがずっと気になっていたのだけど【しつこい者とはおれカネゴン】、上の本で性欲の滅却がしきりに説かれているのは、性欲を全否定しているのではなく、性欲に限らずそういうものに囚われたままだと本当にしたいことができないままになるからコントロールしなさいということなのだろうかとふと思う。数千年前にはネットもゲームもなかったので、こういうつまづきの元と言えば性欲と博打ぐらいしかなかったのだけど、今ならドラッグやパチスロなどその手の中毒性の高いアイテムには事欠かないので、そこのところを読み替えないといけなかったりして。

仏陀の場合、数学の論文と同じで途中経過がなく結論だけを説いているので、そこにいたるまで強烈な性欲とどうやって格闘したのかはわからずじまい。ケプラーみたいに途中の計算をしくじりも含めて全部残していてくれるとよりいっそう親しみが持てたかもしれない。見ようによっては仕様書とソースが失われたバイナリ状態なのかも。誰かが強力な人間ディスアセンブラとなって結論から途中経過を復元したりしないだろうか。もしかすると仏典が半端でなく多量なのは、当時から人間ディスアセンブラ達が大活躍していたからなのだろうか。

他には、「悪い友達と付き合ってはならない」ということも繰り返し強調されていた。カネゴン自分がその悪い友達だったらどうしよう。