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もう「それが好きで得意だから」というだけではやっていけなくなる。
色川武大が自分と同じ劣等生に向けて語った「うらおもて人生録 (新潮文庫)」で、およそ次のようなことを書いていた【またまたそれかおれカネゴン】。例によって記憶から。
劣等生は劣等なのだから、主流の分野で勝とうと思わない方がいい。本線は捨ててしまうんだ。ただしこれは優秀な人についても言えるのだが、「典型的な何か」を目指すということは、一見安泰なようでいて、実は他人に喰われる道をまっしぐらに進んでいるんだな。事の良し悪しは別にして、たとえば劣等生がヤクザを目指すとしよう。このとき、そのヤクザが典型的なヤクザを目指したら、遅かれ早かれ誰かに喰われてしまうだろう。相当優秀であっても、典型的な何かというのは実はもっとも取替えの利く人材なのだから。公務員ならともかく、同じ能力なら、若くて給料の安い者にその地位を奪われるのは当然だ。
もしも本気で生き残るつもりであれば、もっともヤクザらしくないヤクザを目指すことだ。どんな分野であっても、自分の力で生き残るためには、ずば抜けて優秀であるか、絶対に取替えの利かないユニークさか、そのどちらかが必要なんだな。ぼくもまったくそうなのだが、君たち劣等生は優秀さにおいて太刀打ちできないのだから、ユニークさか、せめて生きることを許してもらえる愛嬌を会得する必要がある。
ぼく自身、博打ばっかりやってきたように思われることが多かったけど、編集者をやったり炭屋の小僧をやったり愚連隊をやったり東映のストに参加したり乗馬をやったり文学の同人に参加したりと、いろんなことに手を出してきた。そして自分自身は何者でもないのだと常に思い続けていた。当時はそこまで考えていたわけではなかったのだけど、典型的な何者かにならないという道を本能的に自分の嗅覚で選び取っていたのかもしれなかったですね。
もしかすると個性とかユニークさというものは、生活が満ち足りたついでに空しさを埋めるためにカルチャースクールで習うような余興ではなく、優秀さという必殺の武器を持たない者が生き延びるために最後にすがらざるを得ない、非常に厳しいものだったのかもしれない。カネゴンはついここに出てきた「ヤクザ」を他の言葉に置き換えてみてしまう。ハッカーらしくないハッカー、学者らしくない学者、野球選手らしくない野球選手。
色川武大の場合、いかにも博打で生き残った人らしく、その分野で「最も優秀な人」以外は全員劣等生に分類しているはずなので、屈折した形で普遍性が保たれていることになる。ここに書かれていることは、専門職ほど該当しやすいと思う。勉強して学べることや本に書かれていることなどは、他の人によってあっという間に追いつかれてしまう。かといって努力しないとますます引き離される。「生きることを許される愛嬌」というのも、要するに対人能力ということになる【そこが欠損おれカネゴン】。