色川武大私の旧約聖書 (中公文庫)」で【またまた書くとはおれカネゴン】、有名なヨセフ物語についてももちろん触れられている。例によって記憶から。

ヨセフは「七年の豊作の後に七年の大凶作が訪れるでしょう」と予言をし、見事に当てて宰相にまで登りつめますが、よくよく考えてみれば、ヨセフの能力は、事象を冷静かつ正確に認識することによる、いわば人間として当たり前の能力なのですね。しかしながら、ヨセフの先祖は砂漠で苦労に苦労を重ねた民で、こすっからい、乾いた血が流れているのです。豊作が七年続いたぐらいでは、そんなことは当たり前だと思わない。ヨセフと普通の人々を分け隔てているのは、つまるところ、この認識能力の差なのです。

科学という言葉はどこにも使われていないのに、物腰も視線もとことん科学的。

エジプトでは、王(パロ)がヨセフの予言に従ったおかげで、七年の豊作の間に穀物をたっぷり蓄えることができました。そして凶作の時代になり、それがますます激しくなると、周囲の国民は先を争って穀物を買い付けにきます。やがて金が底をつくと「家畜を持ってくれば、引き換えに穀物を渡そう」とおふれを出し、人々は家畜をすっかり差し出します。それもなくなると、人々は「もう私たちには何も渡すものがありません。私たちを土地ごとパロの奴隷にしてください。その代わりに穀物を下さい」と懇願します。こうして、ヨセフは人民も家畜も財産も、すっかりパロのものにしてしまいます。

経済という言葉はどこにも使われていないのだけど、経済と戦略があざといまでに一体化している。助けたように思わせながら掌中に収めるという、舌を巻くほど見事な手腕。この手法が古典中の古典であり、今後も立派に通用することを痛感。貧しい人を救うには景気がよくなる必要があるとかそうでないとかいう話を見ると、なぜかカネゴンはこの話を真っ先に思い出してしまう。

その気になれば、ヨセフは自分がパロになりかわることもできたのかもしれませんが、それをしなかったのは、ひとつにはヨセフが外国人だという引け目もあったのでしょう。異国人は地縁もコネもないので、ひたすら自分の才覚だけでのし上がらなければいけないことになります。そう考えると、このパロもなかなかやるなという感じです。有能なヨセフが異国人であることをうまく利用して、働かすだけ働かしたというところでしょうか。

カネゴンが卵(小学校)の頃にヨセフ物語の絵本を読んだときは、年下のヨセフと末っ子のベニヤミンばかりが父のヤコブから可愛がられているのを見て、これでは他の兄弟が怒ってヨセフをいじめても仕方がないのではないかと、どうでもいいところが気になってしまった【本質読めぬおれカネゴン】。