昨日の続き。

とするとカネゴンたちは、子供たちを逞しくするために最初から醜い現実の真っ只中に放り込まないといけないのだろうか。一見矛盾するようではあるのだけど、色川武大は「うらおもて人生録 (新潮文庫)」でこれとはまったく逆のことを主張している。例によって記憶からなので相当変形しています:

両親が年老いてから生まれたこともあり、私は幼少期から、傍から見ると常軌を逸しているぐらい溺愛されて育てられました。当時はそのことが疎ましくて仕方なかったのですが、長じて博打の世界に身を投じたとき、今から思えばそうやって溺愛されていたこと、過剰なぐらいに愛情を受けた経験があったからこそ、私はあの世界で生き残ることができたのではないかと思います。
鉄火場には、化け物のように強い男たちがうようよいました。しかし私が観察してみると、強い者が必ずしも生き延び、弱い者が必ず食い殺されているわけではなかったのです。彼らはおそらく、生まれてから他人に愛されたことなど一度もない者たちばかりでした。そしてほんのちょっとしたことで簡単に自分の生命を捨ててしまったり、博打に勝っても人格が破綻してしまったりと、過酷な運命に迎えられたのです。
私は「勝つ」ということを、それだけのものとしては捉えていません。たとえ勝っても人格破産してしまえば、それは「大怪我」です。そもそも鉄火場では延々勝負が繰り返されるのですから、局所的な勝利や敗北など途中経過にしか過ぎません。大事なのは勝つことより「怪我をしない」ことです。
私はあることがきっかけでその世界から足を洗い、自分の中では長らく「博打打ち失格」だと思っておりました。だいたい、自分には「帰る家がある」というだけでこの世界では落第したも同然です。彼らのほとんどは、帰る家も故郷もないのが当たり前でしたから。そしてこのクラスになると、皆同じぐらいに超人的な技術を身に付けていて、勝負が決するほどの技術の差は生じない。
しかし自分の力だけではどうにもできない運命的な瞬間に、他の博打打ちが次々と討ち死にする中、ほんのわずかでも自分の生命を粗末に扱わないでいられたのは、突き詰めてみれば、どんな形であれ愛情を受けた経験があったかどうか、無償の愛というものがこの世に存在することを知り、それを存分に味わった経験があったかどうか、そのことが決定的な差だったのかもしれないと今では思います。

博打やら何やらでさんざん非道を重ねた色川武大がこう言うところに、まっとうな意見を述べる高橋がなりにも通じる説得力があるような気がする。
カネゴンがついつい色川武大に入れ込んでしまうのは、麻雀放浪記のような爆笑残酷バイオレンスものを書く人でありながら、本質的にはとても女々しいからなのかもしれない【女々しさだったらおれカネゴン】。