学者を大別すると、何だか理論系と実験系に分かれるものらしい(理論物理学者と実験物理学者など)。これから書くことには特に何の根拠もないので【それはいつものおれカネゴン】、聞きかじりと思い込みのみを土台とする。
カネゴンの印象としては、実験の得意な学者というのは総じて学問以外の世界においてもてきぱきと仕事をこなしたり料理を手際よく作ったりできる、いわゆる「使える人」であるように思える。これに対し理論は得意だが実験が苦手だという学者は、どちらかというと社会がもてあます、「アレ」呼ばわりされる可能性が高い人物像のような気がする。世間が学者に対して持つステレオタイプなイメージは後者が由来となっている。ガリレオの時代のような昔なら理論と実験を両方こなすことはそれほど困難ではなかっただろうけど、学問が国鉄労働組合のごとく細分化されまくっている近年はいやでも役割分担が進んでしまうだろうと推測する。
理論と言っても、理論を「作り出す」学者と理論を「まとめる」学者はカネゴンにとってまったく役割が違う。理論をまとめることのできる人は使える人であり、ぜひとも実験系としてカウントしたい【願望ベースのおれカネゴン】。つまりカネゴンとしては、理論を作り出す学者vs(理論をまとめる学者+実験の得意な学者)という図式にしておきたい。面倒なので前者のみを理論派、後者をまとめて実験派ということにする。
で、理論派と実験派の違いは、後者は「秩序を守る側」なのに対し、前者は「秩序を壊す側」だという点にある。カネゴンとしては前者を破骨細胞、後者を造骨細胞(骨芽細胞)に見立てたくて仕方がなかっただけなので気にしないで下さい。仕事ができるというのはそのまま「秩序を要領よく守って行動する」ことと同義であるし、たとえ能力が低くてもそれなりに使い道があったりする。逆に、秩序を壊す者はその能力が高ければ高いほど社会を根底から破壊するし、能力が低ければただの足手まといとなる【もしや今でもおれカネゴン】。
いずれにしろ、この両者が揃っていないと学問は正常に機能しない。たとえば哲学には前者しかいないので恐ろしくバランスが悪く、思うがままに実験の出来ない経済学や教育学では後者の人材が無理やり前者に押し込められて数々の不幸を生み出していたりして。
ただし、たぶん両者が同数である必要はなく、破骨細胞1:造骨細胞99ぐらいでいいような気がする【細胞呼ばわりおれカネゴン】。前者の破骨細胞が学問の骨格のとってもクリティカルな部分にヒットし、再建しがいのある荒れ野にまで崩壊してくれるとカネゴンに多大な快感がもたらされることだけは間違いない【暗い楽しみおれカネゴン】。昨今学問の道に進もうとする人なら自分がどっちのタイプなのかをたいていわかっていると思うのでカネゴンから言うことは何もありません。

目の当たりにしてやっとわかったのは、母乳は事前に製造されて蓄えられているものがおっぱいから供給されているのではなく、赤ちゃんの吸いに応じて動的に血液から生成されているということ。母乳を与えた直後の母親が喉の渇きを訴えることからも明らか。血液は塩辛いのに母乳はほんのりと甘いところからして【味見をするとはおれカネゴン】、おっぱいには魚のエラに似た塩分フィルター機能が仕込まれている(または進化の過程でエラがおっぱいに転用された)可能性があるかもしれない。