カネゴンはなぜ負け戦が好きなのだろう。カネゴンが思うことは世界人類も残らずそう思うと仮定して話を進める【ありえぬ仮定のおれカネゴン】。

奇妙なことに、誰しも勝ちたいと思っていることは間違いないにもかかわらず、人は負け戦に強く惹き付けられる。勝ち戦が無条件によいものなら漫画も映画も勝ち戦で終始するはずなのに、実際にそれをやってみると、よほど巧みな演出を施さないと、たいていの場合強者による弱者のいじめにしか見えなくなる。たとえ最後には勝つとしても、一度手ひどく負けておく必要があることから考えて、やはり人類の心には仕返しがこの上もなくフィットするということでいいだろうか。たとえ法が許さなくても、仕返しとか復讐とか意趣返しというお題目が備わると個人の無茶な行動が正当化されてしまったりする。

そして仕返しの要素を除いても、どこか負け戦には何とも言えない甘美な魅力がある【一人でうっとりおれカネゴン】。勝ち続ける経験は特定の人間に集中しがちだけど、負けの経験は遥かに多くの人間によって共有されているため、共感を得られやすいというのもあるかもしれない。たぶん一番の理由は、負けた側にしてみれば負けっぱなしではそれこそ救いがないので、せめて面白い話として残し、勝ち話と競わせなければやってられないということだったのかも。幸いかどうか、負け話の方が勝ち話より印象が強くなりやすい傾向がある。上手に負ければ2000年持つことは既に証明されているし。

カネゴンがアウトドアっぽいことをまったくやらないのは、山や海に入ったら知らないうちにやってはいけないことをいっぱいやってしまったりタブーを冒したりしてしまいそうだからなのだけど【破壊と疫病(えや)みのおれカネゴン】、村々に古から伝わる環境保存の知恵というのも、実は昔の誰かが何度となくとんでもない環境破壊の失敗をやらかしたことがあったからこそその知恵が残されたのではないかと思ったりもした【言いくるめるとはおれカネゴン】。

日本の反対側で起きた事件について、CATVで「事件を起こしたとされる組織にはもしかすると中心となる実体がなく、直接のつながりを持たない別の団体が組織の思想に感応して次々にその組織名を半ば勝手に名乗ることで、実体がないまま組織が一人歩きしてしまっているのではないか」と述べていた人がいた。愛の戦士レインボーマンを最終回まで辛抱強く見た人なら【他人にも強いたおれカネゴン】、これと同じことを暗示させる結末になっていることに気付いたかもしれない。

人の心は基本的に何事にもいちいちストーリーをつけないと納得しにくいつくりになっているせいか、かつては求心力のためのカリスマが(それを求める側にとっても敵対する側にとっても)不可欠だったと思うのだけど、情報の流通が滑らかになるにつれてその方法論がいつの間にか陳腐化し、(お話の世界を除いて)どんどん分散する方向に向かっているのだとしたらどうしよう。「こいつさえ倒せば」というボスキャラみたいなのがいてくれると、守る側にとっても結束力が最高度に高まる一方、攻める側にとってもありがたいことこの上ない。分散すると、守る側にとっては勝利した場合の効果がはっきりと得られないというデメリットがあるかわりに、攻める側がどこを破壊すればいいのかがはっきりしなくなるという絶大なメリットが得られそう。と言えば聞こえはいいけど、単に責任逃れの技術が向上しただけだとしたらどうしよう【そこなら得意のおれカネゴン】。