日本の反対側で起きた事件について、CATVで「事件を起こしたとされる組織にはもしかすると中心となる実体がなく、直接のつながりを持たない別の団体が組織の思想に感応して次々にその組織名を半ば勝手に名乗ることで、実体がないまま組織が一人歩きしてしまっているのではないか」と述べていた人がいた。愛の戦士レインボーマンを最終回まで辛抱強く見た人なら【他人にも強いたおれカネゴン】、これと同じことを暗示させる結末になっていることに気付いたかもしれない。

人の心は基本的に何事にもいちいちストーリーをつけないと納得しにくいつくりになっているせいか、かつては求心力のためのカリスマが(それを求める側にとっても敵対する側にとっても)不可欠だったと思うのだけど、情報の流通が滑らかになるにつれてその方法論がいつの間にか陳腐化し、(お話の世界を除いて)どんどん分散する方向に向かっているのだとしたらどうしよう。「こいつさえ倒せば」というボスキャラみたいなのがいてくれると、守る側にとっても結束力が最高度に高まる一方、攻める側にとってもありがたいことこの上ない。分散すると、守る側にとっては勝利した場合の効果がはっきりと得られないというデメリットがあるかわりに、攻める側がどこを破壊すればいいのかがはっきりしなくなるという絶大なメリットが得られそう。と言えば聞こえはいいけど、単に責任逃れの技術が向上しただけだとしたらどうしよう【そこなら得意のおれカネゴン】。