ふと気付いたのだけど【無駄な時間とおれカネゴン】、呪いは、その呪いが本当に効くかどうかというオカルトな側面はまったく重要でなかったりする。呪いは一種のメッセージ プロトコルであり、「自分が誰かに呪われている」という情報が最終的に相手に到着しないと意味がないし、「貴様を呪っているぞ」というメッセージが相手に知られてこそ意味がある。逆に言えば、仮に本当に呪いが効いたとしても、そのことが相手に伝わっていないのであれば、ただ死んだだけということになってしまう。
しかしこのメッセージング プロトコルには一つ大きな特徴があって、呪う相手がその呪いを相手や知人に直接言いふらして回ると、どういうわけかその効果は失われてしまい、単に馬鹿にされて終わってしまう。そのままでは、相手を気持ち悪がらせ、不快にさせ、怖れさせるという目的が達せられない。しかしながら、相手に知られなければ呪いに意味がない。
丑の刻参りで「呪っているところを他人に見られてはならない」と厳重に指定されているのは、演技の下手な素人さんでも効果的に呪いを演出できるようにするための、古人の知恵だったりするのかもしれない。三・七・二十一日もの間夜な夜な神社に出かけて釘の音を響かせれば普通誰かに見つかって勝手に言いふらしてもらえ、勝手に怖がってもらえるので。
このような、直接メッセージングを避けて間接メッセージングだけを利用するコミュニケーションが今後熱心に研究され、国家間の外交などで応用されて見事花咲いたりする日が来るだろうか【振って寝るとはおれカネゴン】。

今だから言えるのだけど、カネゴン実は新世紀になってからというもの、自己嫌悪と厭世的な気分が一瞬たりとも離れたことがなく、消えてなくなってしまいたいという気持ちに常につきまとわれていた【皆はとっくにおれカネゴン】。そういう状態のまま生活し、日記が書けてしまうのが我ながら不思議だったりした。
それが、出産前の数ヶ月の間にとんでもなく忙しくなった理不尽な仕事に押しつぶされそうになり、今にも叫びだしたくなるのを必死でこらえながらやっとのことで仕事を終えた後【倒れる寸前おれカネゴン】、何かがぷちっと頭の中で切れたか何かしたのか、どういうわけか厭世的な気持ちがふっとどこかに行ってしまった【バーチャル出産おれカネゴン】。
原因はわからないので、とりあえずカネゴンの先祖がさまざまなめぐり合わせを操って遠隔的心霊手術をカネゴン脳に荒っぽく施したと無理やり考えることにしておく【突貫工事とおれカネゴン】。お騒がせいたしました。