オープンソースの要であるGPLは、コードという知的財産を独占させないためのものであるとカネゴンひとまず理解しているが、憎まれっ子世に憚る、あの手この手で基本的には数式と変わらない(数式には基本的に特許は認められない)ソフトウェアを独占(というより「隠す」という方が正しい)しようとする動きは止みそうにない。純粋に「誰のものでもない」ものにしようとすると(GPLがそれを目指しているわけではないが)、そういう誰かのものにされてしまう可能性があるがために、仮にでも「誰かのもの」にしておく必要があるということだろう。

江戸時代には、面白い数学の問題を考えたりそれを解いたりしたら、絵馬に描いて神社に納めるという美しい習慣があった。果してGPLオープンソース神社に絵馬を奉納する行為に相当するや否や。「誰のものでもなけりゃ、とりあえず神様のもんということにしとくべ」という考え方は、どうもキリスト教圏内では見かけない。ガリレオですら「神は一瞬でどんな問題も直観で解いてしまうが、人間は定義をひいて一つ一つ順序だって解くのだ」みたいに、神様に帰すのはいいとしても、そこから先まるで神様がギンギンに所有権を主張しているかのように考えなくてもと思ったりしてしまう。かの地の知的所有権著作権の起源は、この神様を人間に置き換えた発想なのかもしれない【根拠はあるのかおれカネゴン】。

靖国神社にどんな神様がいるかはよく知らないが、こういう絵馬を奉納してもらえそうな方の地元の神様は、どちらかというと「誰でもない」というかanonymousというか/dev/nullなものを代表しているような気がする。GPLに「奉納」という概念を持ち込み、オープンソース神社を建立しようではないか。行為の方が重要なので御神体は問わないことにする(=オブジェクト指向な宗教)。島根かどこかに「レゲエ神社」があり毎年レゲエを奉納しているぐらいだから、こういうのもありだろう。よく考えれば、どんな宗教であっても行為の方が重要で、何を拝むかは本質ではないのではないか【きっと地雷だおれカネゴン】。