黒木さんのエッセーより。

以前高校生に数学を教えていたときの経験では、「数学」以前に「恐怖」の問題を取り除くことが極めて重要であることを感じました。つまり、「数学に対する恐怖」のおかげで、全く頭が働かない状態で勉強しようとしている高校生がたくさんいて、そのような場合は何を教えても無駄に終わってしまうということを経験しました。それ以来、数学内部の視点のみから「数学教育」を語る人の意見は空虚に見えるようになりました。

うーむ身に覚えあり。「数学内部の視点のみから数学教育を語る人」とは誰だろうか。ここのサイトでは養老孟司とか村上陽一郎とかメタクソに言われているから、誰が言われても不思議ではないが。森毅ではないと思いたい。

上の話と何一つつながらなくて済まぬで御座る。よく「数学は論理だ」と言われるが、昔風の任侠の徒はある意味でその辺の市民よりも論理に忠実な気がしてしまう。仁義とは一つの論理体系であると考えれば、任侠の徒はその論理体系に矛盾が生じる行為(仁義に反する)を最も非難する。少なくとも形式上は。「親分が黒と言えば白いものでも黒と呼ぶ」というのはオーバーライド(上書き)の概念かもしれない。だからかどうか、数学は論理かもしれないが、論理は必ずしも数学ではないのではないか。誰か任侠道を記号論理学で書き直してくれ【虚しく響くおれカネゴン】。