こんなことを書くのも気が引けるけど、善意に勝る破壊力のある感情は存在しないのではないかという気がしてきた【睡眠不足かおれカネゴン】。悪意でも恨みでも悲しみでも、そういう気持ちを伸び伸びと発現させる人はたぶんいない。こういう気持ちには必ず後ろめたさがつきまとって、それが抑止力になる。でも善意がベースになっていると、それを抑止する仕組みがキリスト教に備わっていないため、いくらでも過剰になることができてしまう。贔屓の引き倒しというか、相手を無知と決めてかかって一方的に英会話や資本主義を啓蒙したり札束をばらまいたりすることができてしまうのは、善意がベースになっているからかもしれない。これはかなり大きなバッファ・オーバーフローのセキュリティホールである可能性がある。