カネゴンは聴いた事はないのだけど、未だに伝説として語られる阿部薫というフリージャズのサックス吹き兼ギタリストがいた。売れる前の(喜多郎みたいな髪型と鬚の)坂本龍一阿部薫と共演したときの感想が「とにかく、あまりいないタイプの人だった。自分の中に少しでも権力体制ができたと感じたら、それを壊すためにまたサックスを吹くみたいな」だったそうだ。筒井康隆も、ピックを落して指を血まみれにしてギターを弾く阿部薫を見てぞっとしたみたいなことを何かで書いていた。カネゴンは音を聴いた事もないまま書き進めてしまいます【そんなことではおれカネゴン】。

当時は「権力体制」が何を指しているのかよくわからなかったカネゴンだけど、どうやらこの人は「手癖で吹く/弾く」ことを甘えや慣れ合いと見なして徹底的に排除しようとしていたのではと思える。おそらくこの人のせいでフリーという言葉に真向から過剰に反応して、「過去にまったくない演奏」「過去とまったく関連のない演奏」「予想もつかない演奏」にしようとしていたのではないかという仮説を一方的に立てることにする。

数学的な意味でのホワイトノイズは、まさに言葉通りすべての周波数成分を不規則に含んでいて、ある瞬間を取り出したとき、その直後にどのような値になるのかが予測がつかない。言い替えれば、その瞬間瞬間がまったく関連性がない(相関がゼロ)。TV終了時のいわゆる「砂の嵐」の画面で、ホワイトノイズを音と映像の両方で観察することができる。弱い相関を示すピンクノイズというものもあって、音で聞くとこれが単に「こもったホワイトノイズ」にしか聞こえない。

しかし人間の耳はこれまた飽きっぽくて、「予測ができない」状態が繰り返されると、すぐに単調に聞こえてしまう。ややこしいけど「予測ができない」ということが予測がついてしまうようになる。阿部薫がこれを回避して演奏するならば、今度は、ときどき出し抜けに「予測のつく(安心できる)演奏」をして、「予測ができない」か「予測がつくか」ということ自体が予測できないようにしないといけなくなり、ますますややこしくなる。このような、一階層上の予測できなさに昇格することを、とりあえず「2階ホワイトノイズ」とでもしておく。

ところが今度は、2階ホワイトノイズ自体が予測がつくようになってしまう。そうなると、「予測がつかない」か「予測がつくか」ということ自体が予測できないようにするために、さらに大きなスケールでときどき出し抜けに「予測のつく「予測のつかなさ」」で演奏しないといけなくなり、ますますますややこしくなる。これを「3階ホワイトノイズ」としてみる。

またまたこれを繰り返すなら、しまいには「n階ホワイトノイズ」とでもいうべき段階に到達し、lim(n→∞)に持っていくしかなくなる。それで単調さを回避できるかというと、やっぱりできないのではないかしら。大言壮語した割りに尻すぼみの結論になってしまった。阿部薫は早死にしたらしいけど、これは確かに長生きできそうにない方法論だと思う。死に至るメソッド。hirax.netさんならこの辺のことを喜々としてもっと厳密に表してくれるのではないかしら。

言葉を変えれば、「1,1,1,1,...」や「1,2,3,...」みたいな単調さと違う、こういう種類の単調さがあってもいいのではないかしら。極小のスケールから極大まで相関がゼロみたいな。覚えたての言葉なので使ってみたかっただけです。

ただ、こんな状態は間違っても実在はしないのではないかという気がする。実用性からっきしないし。エントロピーとやらがもりもり増大して宇宙が熱死するより、遥かに想像を絶する。この状態は、何というか「生命」と究極に反対のところにある感じがしないでもない。ヤプール人みたいなものか。切通理作映画秘宝に書いていたことを信じれば、ヤプール人は宇宙人ではなく「純粋な悪の観念」という設定なのだそうだ。その割りに発言は人間くさかったりするけど。

阿佐田哲也によると「いつも同じ事をしていたらバクチは勝てません」とのことだけど、バクチの場合、本気でn階ホワイトノイズを目指す必要は全然なかったりする。要は相手の予想を裏切れればいいんで、苦労してn階繰り返すよりも、相手にあるイメージを持たせて、それを覆す方がてっとり早いということだそうだ。カネゴンがマージャンで散々授業料を払った経験では【高くついたなおれカネゴン】、少なくとも主観的にはこういう人為的な予測のつかなさの方がn階ホワイトノイズよりも予測がつかないような気がする。正直なところ裏付けなど何もないのだけど、この2つはランダムさの質が何か決定的に違うような気がする。どうなのでしょう。