Scientific Americanの「時間特集」にこんなようなことが書いてあった:

量子力学電磁気学の融合は極めてスムーズだったにもかかわらず、量子力学と特殊相対論を一つにしようとしたら、時間tが式から消えてしまい、物理学者がみな頭を抱えてしまった」。他にも時間は人間の意識が生み出したどうのこうのみたいなことが書いてあったような気がする。

カネゴンがいつか日記に「ニュートンは実は『力とは何か』を全然定義しないまま力学を打ち立ててしまったらしい」と書いたけど、よく考えたら『時間とは何か』もやっぱり定義されてなかったのではないかしら。また何か、まずいことを言ってしまっただろうか。

しょうがないのでカネゴンが時間を定義しておきます【身の程知れいおれカネゴン】。

  • この世界には「何度でも完全に再現可能な現象」と「完全な再現は不可能な現象(ベータ崩壊とか隕石が落ちてくるタイミングとか。パチンコとか麻雀の勝ち負けとかギャンブル一般やパ・リーグの首位争いなどもここに含まれる)」がある。時間は前者をベースにした場合にのみ定義が可能となる。後者をベースにした場合時間は定義されない。
  • そしてこの世界には「記録(chronicle)」または「記憶(memory)」がある。記録または記憶のないところには時間は定義されない。月面は今日行っても明日行っても変わっていないので、時間は止まっている。
  • 上記2つの要素が揃って、初めて時間が定義可能となる。
  • 「完全に再現可能な現象」を「連続して(隙間なく)発生させ」、「それについての記録または記憶を参照可能」な場合、初めて「時間の長さ」と言えるものを定義する「準備」ができる。これらの条件が満たされない場合時間の長さは定義されない。
  • 完全に再現可能な現象によって発生したパルスが3つ連続して発生し、その記録または記憶を繰り返し参照可能な状態を作り上げると、ここに時間の長さが定義される。パルス2つでは定義できない。パルスではなく、ラッパのロングトーンみたいに持続する現象(duration)の場合は、連続して2つ発生することにより時間の長さが定義される(これら自体は「1時から3時の間は2時間」と同じで、時刻か時間かの違いだけ)。
  • これまで時間tとされていたものは実は時間そのもの(と思われていたもの)ではなく、これらの「記録または記憶」を時間と勘違いしていたりなんかする。だから映画の逆回転みたいに一見可逆に見えてしまうし、流れているように見えたりもするし、時間が独立してそこにあるように見えてしまう。
  • そういう意味で、今まで時間と思われていたものは、「愛」や「霊魂」が存在するのと同じように存在しているとは思うのだけど、カネゴンが食べる納豆ご飯のようには実在していない。カネゴン実は「存在」と「実在」と「実存」ってどう使い分けていいか知らないのでヤマカンでやってます。他の人も見てると使い方ばらばらだから別にいいか。
  • 過去の記録または記憶を再生(playback)するときの速度を変化させることにより(ここには「時間の流れ」と思われていたものがある)、見かけ上の時間の長さはなんぼでも変化する。ついでながら、人間が観測できるのは常に「過去」だけだったりする。つまり「記録」と「記憶」しか観測できない。厳密な意味で「現在」を観測することは不可能。なおカネゴンの場合「つらい過去」「恥ずかしい過去」に常に付きまとわれる。

とすると、「楽しいときには時間がびゅんびゅん過ぎる」「つらいときには時間がなかなか経過しない」「飛び降り自殺するとき地面につくまでに走馬灯が物凄い勢いで駆け巡る」ことをもう少しすっきり説明できないだろうか。と同時に、再現可能な世界(ニュートン力学/相対論)と再現不可能な世界(量子スケールの世界)のマッピングは「定義しようがない」ですましたりなんかしたらだめでしょうか。ただ少なくともセシウムだの地球の回転だのは、時間の長さの具体的な定義だとは思うけど、時間を定義していないとやっぱり思う【睡眠足りたかおれカネゴン】。