ビル・アトキンソン講演(via hiraxさん)。

HyperCardはWebの先駆者だった」という意見にうなずく。HyperTalkという言語も、今から思えば(そして未だに)、自然言語に近い記述の緩さと記号を極力排除したことによる読み易さ、そして即物性が画期的だった。HyperCard自体の制限からデザインパターン云々や大規模開発には不向きだったかもしれないけど、プログラミングの敷居の低さという点では、特に素人にとってシェルやVBよりはるかに書き易いと信じている。その代償として、書かれたコードがあまり高級そうに見えなかったということは言えるかもしれない。あの系統の言語が絶えてしまったのは、HyperCardのカラー化が遅れたというしょうもない理由の他に、読み易さよりも記号を多用してタイプ量を節約できる(そして書かれたコードがあまり馬鹿っぽく見えない)言語の方が重宝されてしまったせいもあったのかもしれない【絶滅種とはおれカネゴン】。言語の選択には、「難しそうな方が金が取り易いかもしれない」という圧も働くことを痛感。

HyperCardの不幸は、ビル・アトキンソンが心血を注いだユーザビリティの長所が、どちらかというと言葉で説明しにくい部分にこそ多く盛り込まれていたことだったのかもしれない。「あれができます」「これができます」という派手なスペックを宣伝をしにくい部分にこそ多くの細かな気遣いがあったのだけど、「言語化されていないところに良さがある言語」という一見矛盾したありかたは、広く普及するには不利だったのかもしれないと思えてきた。将来たいていのものが開発されつくした頃には、最近の映画や音楽や自動車と同様、完成度を上げる以外にすることがなくなるだろうから、そのときになって慌ててHyperCardをひっくり返して点検するはめになるかどうか【早う寝んかえおれカネゴン】。