ずっと前に買ったきり保留になっていた三浦先生(特撮が好き)論理サバイバルをやっと読みはじめる。姉妹書論理パラドクスと併せれば、パラドックスを網羅した最新の図鑑としても役に立つ。パラドックスと思われている有名な命題が実はパラドックスではないなど、今更のようにいろいろと驚かされる【カビが生えてるおれカネゴン】。この本はおそらく劇画原作者や劇作家にとっても非常に役に立つかもしれない。

読んでるうちにカネゴンわからなくなってしまった点が一つ。日本語では(例外はもちろんあるものの)一般的に「A[は]Bである」という言明は、「B[が]Aである」という言明と等価であると説明されていた。たとえば「太郎君は風邪をひいています」は「風邪をひいているのが太郎君です」と同等であり、「太郎君が風邪をひいています」は「風邪を引いているのは太郎君です」と同等であるということらしい。訓練が不足しているか例外に引きずられているせいだと思うのだけど、これが今のところカネゴンアイには何となく等価に見えない。

どうやら、日本語で「AはBである」というのは「A⊂B」であり、「AがBである」というのは「A⊃B」であるということらしい。書きながら考えてみる【知力に限界おれカネゴン】。

「うたはともだち」は「うた⊂ともだち」、つまり「ともだちという集合の中にうたが含まれる(=うた以外にもともだちはいるかもしれない)」ということなのだろう。それをひっくり返した「ともだちがうただ」は「ともだち⊃うた」となる(意味は同じ)。ただ「ともだちがうただ」という言い方は宇多田ひかるが友達でもない限り日常ではあまりしないと思うけど【うたがともだちおれカネゴン】。

一方「俺が村田だ」は「俺⊃村田」、「俺という集合の中に[他でもないあの村田であるという性質]が含まれる(=他の奴はあの村田ではない)」ということなのだろう。それをひっくり返した「村田は俺だ」は「村田⊂俺」ということになる(意味は同じ)。

つまり、「が」を使用する場合、無意識にその前に「他でもないあの」という言葉が後ろに補われていて、「は」を使用する場合、これまた無意識に「他にもそういうものはあるかもしれないけど」という言葉が後ろに補われているということになる。

「むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさん[が]おりました。おじいさん[は]山へ柴苅りに、おばあさん[は]川へ洗濯に行きました。」という文の場合は、最初はこの規則とは異なっているかと思ったけど(英語のaとtheのような使われ方)、「あるところにおりましたの[は]おじいさんとおばあさんでした。山へ柴苅りに行ったの[が]おじいさんで、川へ洗濯に行ったの[が]おばあさんでした。」と多少不自然ながらも変換できた(後半は[は]でもおかしくないと思うけど)。よく議題に上がる「象は鼻が長い」も、よく見るとこの規則に確かに合っていることに今気付いた。ただ「長いは鼻が象」とは絶対言わないだろうけど。

さっきも書いたけど、例外は多々ある。ここで言う「は」と「が」は、おそらく論理学用に最適化された一面があるというか、おそらくisとhasに対応づけようとしたのではないかと。とこれだけ書いてみてやっと納得できました。お騒がせしました【マッチとポンプのおれカネゴン】。