中野監督の鋭い直観。やはり善意はしくじったときの被害が最も大きいのだろうか。

先日CATV(おそらくディスカバリーチャンネル)で、何年前だかわからないけどオーストラリアのアボリジニの子供たちが入植者たちによって強制的に親から引き離され、彼らが言うところの野蛮な文明を排除することによって文化的な生活を集団で強要されたというドキュメンタリーをやっていた。昔社会科で習った白豪主義ってこれのことなのだろうか。これはこれで一つのプロパガンダなのだろうけど、「ここ(集団キャンプ)にいる間、私たちはずっとみじめでした。」と語ったキャンプ経験者の苦悶に満ちた表情が忘れられない。と同時に、もしカネゴンが彼らに接したときに果して上から見下ろすことなく対等に接することができるかどうか甚だ自信がなくなってきた【隙さえあればおれカネゴン】。ある英文法の教科書の例文で「ナチスの連中は、一人一人はとてもいい奴らだった。歴史を回想する中でしか彼らにおぞましさを感じられない。」というのがあったけど、相手がオタであろうと秋葉者であろうと何であろうと、個々人を一括りの集団として扱う時点で誰もが罪を免れないのだろうか【A級戦犯おれカネゴン】。その一方、集団としてひとからげに扱うと圧倒的に思考を節約できてしまう以上、こんな便利な方法を皆が放棄するとも思えないし、誰もが心の中に多少なりとも奴隷根性を忍ばせていて自ら積極的に集団に帰属しようとする(それによって集団が現実になる)現象がある以上、どうにもならないのだろうか。カネゴンそろそろわけわからなくなってきました【よるべないとはおれカネゴン】。