喪失と獲得―進化心理学から見た心と体。ちょうど森山さんも「日経サイエンス」でこの本をレビューしていた。

実はぼくたちも失うことで何かを新たに獲得しているのかもしれない。

もしかすると、色川武大が手を変え品を変え長年主張してきたことがやっと定式化されようとしているのかもしれない【何か言うたかおれカネゴン】。ここでその主張をコンパクトに書くのが難しいのだけど、色川武大がたとえば「人生は9勝6敗」だとか「何かを得るためには別のものを手放さないといけない」と書いてきたことが、どういうわけか一般には単なる「癒し系」として受け止められることが多いように思える。しかしカネゴンアイには、むしろそれが人間ごときにはどうやっても変えることのできない、実に冷酷な法則であることを繰り返し言及しているように見える。経済学で言う機会費用もその一端を説明しているけれど、彼の主張はもっと普遍性が高い。彼は科学者ではなかったので科学の言葉で表すことができなかったのだけど、もしそれがあればきっとこんな本を書いたに違いないと読んでもいないうちからカネゴン仮定法を繰り出すことにする【すべては仮定のおれカネゴン】。

本人がいみじくも「色川武大という名前では、人間の力ではどうしようもないことを書くことが多かった」と語っていたけれど、人間の力ではどうしようもないということは、物理法則に限りなく近いということでもある。いやむしろ物理法則そのものだと思う。物理法則は人間に愛想を振りまくことは決してない。こういう人間にはどうしようもないテーマの中でも「時間」とか「病気」とか「死」は誰にでも目に付くのでお題にされやすいけど、彼が常にこだわったのはもっとダイナミックで恐ろしい普遍性だったりする。

私の旧約聖書カネゴンが心底震え上がったのは、イスラエルの民はどう転んでもすべてを手に入れることができなかったという独特の解釈。エジプトでは衣食住には困らなかったが、奴隷につき主体性を持てなかった。砂漠に脱出してからは主体性を獲得できたが明日のご飯にも困るありさま。そしてやっとカナンの地を侵略して定住したら、今度は心を失ってしまった(てんでに偶像を拝み始めた)。この普遍性はカネゴンには恐ろしすぎる【ちびりそうとはおれカネゴン】。