ずっと昔に読んだ楳図かずおの恐怖漫画でこういうのがあった: おとなしい中学生の男の子が、ふとしたことから学校の演芸会で女形を演じることになる。その姿があまりに堂に入っていて、ぞっとするほどの女の艶やかなオーラを舞台で発し、観客が息を呑む。その打ち上げで、クラスメートが面白半分に彼の顔にいたずら書きをしたら物凄く怖いメークになってしまう。その途端彼の人格が豹変し、残忍で凶悪な振る舞いに一同パニック。誰かが決死の覚悟で彼を取り押さえ、メークを落とした途端に元の人格に戻る。

それ以来カネゴンがずっと考えていたのは、人は自分の顔が変わってしまったら、元のときと同じようにものを考えることはできないのではないかということ【資源の無駄のおれカネゴン】。これほど極端ではないにしても、これに類した現象はとてもよく見かける。人は髭を生やすと生やした髭に合わせて振舞うし、おもろいメークをしたらそれなりの振る舞いになるし、総統閣下のコスプレをしたらそういう人柄になってしまうし、ホームレスの格好をしたらついホームレスのように振舞ってしまうのかもしれない。小笠原流とかの礼法も、基本は「外面が内面を決定する」という考え方なのだと思う【その外面がおれカネゴン】。

鏡のないところではその本人にメークが見えないではないかという考えもあるけど、本人のメークは、その周りにいる人々の態度に明らかに反射する。本人がたとえ意識していなくとも、周りの人々の態度によって自分の様子を敏感にモニターできてしまうし、自分の考えや物腰もそれによって多大な影響を受ける。そのため、何かを考えるということは、まったく自分一人で考えているとは言えないのではないかと。自分ひとりで考えているつもりでいても、実はかなりしょうもないレベルで影響を受けているのかもしれないと。ちょうど、スピーカーの置き場所を変えるだけで、オーディオ装置をいろいろと取り替えるのと同じぐらいサウンドが七変化するように。

コドワの力の源はその全身の入墨にある」というのは、たぶんそういうことなのではないかと思う。カネゴンは電車に乗るたびに、自分の姿がもし目の前にいるこの人だったら、自分の考えはどんなふうに変わってしまうだろうかとつい考えてしまう【うっすら無礼なおれカネゴン】。

ふと思ったのだけど、精神科の治療の方法としてこのような極端なメークを施したり、小笠原流と組んで立ち居振る舞いを躾けたりするということを誰か既に試しただろうか。薬物とかではないのでケミカルな副作用はないのだから、既に試した人がいるかもしれない。もし失敗したら強力な現人神が誕生してしまうのかもしれないけど。