カネゴンが知らず知らずのうちに他人の文章で注目していたのは「普遍性があるかどうか」ということらしい【他人のことだとおれカネゴン】。ただ、この普遍性というものがどうも意外に難しいみたいで、何か天下国家や遠い未来を語れば普遍性があるかというと、言葉の意味から即座に普遍性が現れそうなのに、不思議にそうならないし、ものすごく論理的で筋が通っていても普遍性があるとは限らなかったりもする。文章がやさしく読みやすいものであっても普遍性があるとも限らないし、口語体で親しみの持てる文章にしたり、浮世から数億光年離れた文章にしても普遍性が生じるわけではないみたい。

これまでの経験から、それを読む人を驚かせたり意表を衝いたりしながら、なおかつ納得させるという相反する難題を突破できた文章が、比較的普遍性が高いような気がする。そう書くとちょっと収まりがいいので書いてみました【さもありなんとはおれカネゴン】。ギャグ漫画家が悪戦苦闘の末消耗し尾羽打ち枯らして都落ちする姿を禅僧のようにじっと見つめれば誰でもわかるように、毎回読者を驚かせることは相当な苦行だったりする。本来の意味の普遍性は、「5000年経っても面白い」ということだと思うのだけど、先の難題をクリアした文章は、なぜか普遍性を獲得していることが多いような気がする。

以前日記にも書いたけど、広い意味でギャグは笑い空間を大変な勢いで消費するものなので、本人が所有する以上の空間を消費できない以上、ギャグは必然的に有限になってしまう。一般と異なる広大な笑い空間を所有する人は強烈な笑いを生み出す可能性があるけれど、ほとんどの場合単に笑われる。