色川武大が「怪しい来客簿」の「たすけておくれ」の冒頭で紹介していた、強烈な印象の話。例によって記憶から丸引用【二重引用おれカネゴン】。今回はあんまり自分の考えではなかったりする。

能「善知鳥(うとう)」はこんな話:
ある所に暮らしていた猟師は、家業に励むことこそ大事と教えられ、来る日も来る日も鳥を撃って暮らす。しかし猟師は、死んだ後に殺生の罰として地獄に落ち、鳥が流す血の涙に溺れて苦しみぬく。亡霊となった猟師は旅の僧に助けを求める。殺生がいかんというのならなぜ自分はそれを知らされずに育ってしまったのか。家業に励んだことがなぜいけなかったのか。「助けて賜べや御僧、助けて賜べや御僧」(坊様、助けてください、助けてください)と猟師の亡霊が泣き叫んだところで、ふっと話が終わる。

ハリウッドで映画化されることはまずないだろうけど、カネゴンはこの話を思い出すたびに胸が締め付けられそうになってしまう。正しいと信じてきたことにただひたすら邁進し、露ほども疑いを抱かなかったにもかかわらず、こんな理不尽な報いを受けるということは実際にはいくらでもありうることで、それというのも、この世は人間の都合だけでできているわけではないからかもしれない。それはわかっていても、そのことはやっぱりカネゴンの気持ちを重くする【軽々暗示におれカネゴン】。

およそこの世にいるどんな人であっても、何か一つや二つぐらいは無条件に信じている前提を自分の信念の底に置いているはずで、まずひっくり返されることのない基本的な物理法則をその前提に据えているような奇特な変人は別として、人間が設定した条件という移ろいやすいものをその信念の底に無条件に据えていた場合、この猟師と同じ理不尽さを何度でも味わう可能性が常にある。たとえば、勉強に励むことこそ大事、とか。これと同じ必死の叫び声を心の中で密かに上げている人は、日本だけでどのぐらいいるのだろう【よくて一億おれカネゴン】。