家に転がっていた里中満智子トロイの木馬―マンガ・ギリシア神話〈7〉 (中公文庫)」をたまたま読む。まことに恥ずかしながら、ギリシャ神話をまとめて読むとこんなに面白いとはついぞ知らなかった。カネゴンそれまでは星座の由来とか何やらで部分部分しか知らなかったので【つまんで喰ってたおれカネゴン】。カネゴンが繭(大学)のときの担当教授がギリシャをとことんまで深く愛して止まない人だったにもかかわらず、カネゴンは卒業するまでそのことに気が付かずにいたのだけど、これほど面白かったらはまるのも無理はないと今になって思えた【無駄を重ねたおれカネゴン】。たぶん里中満智子でなくても、誰がどう表現しようと面白いと思う。

あまりにも有名なはずのトロイの木馬のシーン: トロイ陣営の「こんなものとっとと燃やしてしまいましょう」とまともなことを提言した者たちが、その場でいきなり海からガバリと現れたヘビのような怪物にあっけらかんと喰われてしまい、辛うじて木馬を敵陣に送り込むことに成功する。小池一夫でもめったにやらないような荒業に思わずカネゴン噴き出してしまう。読んでいるうちにいつしか人間と神がごっちゃになってしまっていたり、今時ありえないぐらい女性がどしどし物扱いされていたりする(にもかかわらず物語の進行上不可欠だったりする)のもいい。たぶん当然なのだろうけど、登場人物のキャラクターも見事に立っている。

そして基本的にはさまざまな矛盾をはらんだ壮大な痴話喧嘩であるにもかかわらず、どういうわけか読み終わってみると実に痛快で(まだ7巻だけしか読んでないけど)、自分でもなぜそう感じるのかがカネゴン不思議だった。全巻読まないとうかつなことは書けないけど【それでも書くとはおれカネゴン】、きっとお話し作りの本質を物凄く的確に衝いているのだと思う。とっくに指摘されているのだと思うけど、お話作りにおける「因果のめぐり」が絶妙だからではないかという気がしてきた。

この間書いたサルがカンカンに怒る話から明らかなように、人間はサルの頃から実は仕返しが心底大好きだったりする。正確には、「よいことをするとよい報いがある」「悪いことをするとそれなりの報いがある」という因果を目にすると人間は心の底から安心し、どうしようもない快感に打ち震えてしまう。昨今の漫画やドラマでは軽んじられることの多い「勧善懲悪」だけど、地上最大の兄弟喧嘩があれほど売れたことからもわかるとおり、これにもこの快感原則が含まれているからこそ今後も勧善懲悪はなくならないと思う。他に「親の因果が子に報い」もこの原則に従っている。有名な最後通牒ゲームからもわかるとおり、この原則は個人の欲得をも上書きするほど強く、自分が損をしてでも相手に仕返しすることでこの原則を守ろうとすることがしばしば起きる。

ところで、「よいことをするとよい報いがある」「悪いことをするとそれなりの報いがある」という因果は、実はまったくの非合理的な信念(irrational belief)で、この因果は合理的なのだ(筋が通っている)とすべての人によって信じられているということ以外にこれを支える根拠は本来どこにもなかったりする。かといって、論理療法とかを真似て、にわかハッカーのように「これは非合理的です」と斬って捨てたままにしていいことにはならない。というのは、人類は数千年かけて、本来は非合理的であるはずのこの信念が本当になるように全力を尽くしてきたからで、その最たるものが法律なのだと思う。だからかどうかわからないけど、痛みを与える政策があれほど支持を得たのも、「ここで痛みを我慢することできっと後でいいことがあるはずだ」というこの信念を見事にくすぐったからだったりして。今気付いたのだけど、物理学も本来はこの「原因があれば結果が生じる」という一見もっともらしいけど実は非合理的な信念から出発していたりして。

なので、何かでっかく悪いこと(世界征服とか)をしようと思ったら、とにかくこの信念をくすぐるに限る。死ね死ね団の次期バージョンは、きっとこの点を衝いてくるような気がする。