洒落にならない権力闘争が繰り広げられるチャングムの誓いから家人共々すっかり目が離せなくなる。初めは妖怪の親玉にしか見えなかったチェゴサングン(最高尚宮)さまが、回を重ねるに連れてますます愛しく見えてくる。

カネゴンとしてはこのドラマのツッコミどころというものには興味を惹かれず、むしろ世の古今と東西と老若と男女を問わず、権力には何とも言えない抗し難い魅力があることを改めて思い知る【板につかぬはおれカネゴン】。主にレフトウィングの人たちがよく判で突いたように紋切り型を駆使して権力を否定しているのを見かけるけれど、こんな究極の快楽と苦痛を否定するとはもったいない限りだと思う。ゲーム理論ととても相性がよさそうだし。

まだまとまっていないけど、とりあえず権力を「他の人も欲しがる有限のリソースを入手した状態」と定義すれば、大病院でも大学システムでも、たいていの人が権力とは無縁ではいられないことになる。以前日記に書いた阿部薫と権力はこれには該当しなさそうなのだけど【関係ないとはおれカネゴン】。

ちょっと前までは、庶民(自分を庶民だと思う人を庶民と定義する)は権力闘争とは無縁という自覚があったので、チャングム大映ドラマみたいな話を他人事として楽しみやすかったのではないかと思うのだけど、昨今はたいていの人がどちらかというと既得権の側にいるので、こういう話が多くの人にとって身につまされすぎるというかあまりに生臭く感じられてしまい、それで昨今こういうドロドロした権力闘争ドラマが少なくなってきたのかもしれないとカネゴン夢想する【最もドロドロおれカネゴン】。

このドラマでもそうなのだけど、実際の権力への関わり方は、絵に描いたような権力欲しげな顔つきで行われるよりも、本心ではうとましい/邪魔臭いと思いながらも、権力を摑んでそれを行使しなければ生きていけない、つまり「やらなければやられる」というどちらかというと後ろ向きな動機で関わる方が多いような気がする。カネゴン推測では、権力を伸び伸びと存分に行使するには巨大な才能が必要なので。そういうドロドロに関わらないためにはゲームを降りるしかないのだけど、封建時代のようにトラバーユなどできそうにない世界では降りるイコール死になってしまうので、ますます降りるわけにいかなくなってしまう。それが嫌さに、人類は数千年もかけてゲームからトンズラする自由を獲得しつつあるということでいいのだろうか【オチておらぬはおれカネゴン】。