小学生校内暴力が18%増加、過去最悪
ついつい「旧約聖書イスラエルの民は、どう転んでも欲しいものすべてを手に入れることができなかった」という色川武大の真言を思い出してしまう【関連ないとはおれカネゴン】。

欲しいものというのは、金さえ出せば買えるような物品のことではなく、たとえるなら「勝利の美酒と栄光」と「印象的かつ甘美な敗北」を都合よく同時に味わうことは不可能だということ。記憶より引用およびまとめ:

  • エジプトでは衣食住には困らなかったが、奴隷につき主体性を持てなかった。
  • 砂漠に脱出してやっと主体性を獲得できたが、明日のご飯にも困るありさま。
  • やっとカナンの地を侵略して定住したら、今度は心を失ってしまった(てんでに偶像を拝み始めた)。

以下、少しずつ変わりながらこのようなことを何度となく繰り返すのですね。まったく同じ繰り返しをすることは決してありませんが、それでも全体としてみる雄大な繰り返しが行われていて、そこから逃れられない。この冷酷な原則が、高圧線のように人々を上から常に見下ろしていることがこの書物(旧約聖書)では示されています。エホバ自身も、むしろ人間と同じくこの原則の下で一喜一憂しているに過ぎず、この原則をちらとでも変えることはできないでいるのです。

つまり、何人たりとも「主体性(自由)」と「ご飯(お金)」と「心(道徳)」を同時に手に入れることはできないということだったりする。色川武大からこのことを旧約聖書を通じて突きつけられ、カネゴンは叫び出したくなりました【何度も書くのはおれカネゴン】。

出エジプト記」から「申命記」を過ぎて、イスラエルの民はようやく定住するようになったわけですが、イスラエルの民が何を手に入れ、何を失ったかという、ここまでの貸借表がこの時点でくっきりと示されているのですね。
そしてここまでの経緯は、私たちに戦後から現代にかけての日本を強く連想させます(日本は敗戦を軸にしていましたが)。

ここで問題にされているのは個人ではなく、集団の統計的性質だったりする。