複雑な世界、単純な法則 ネットワーク科学の最前線」をやっと読み終わる。喧伝どおり世の中の多くの要素が、高々数ホップで結び付けられることはわかったのだけど、カネゴンとしては逆に「遠さとは何か」が気になってしまった。近くにあっても遠いものというものがあるような気がして仕方がない【遠きにありておれカネゴン】。

チャーとミッキー吉野達は「肉体労働派ミュージシャン」ではないか」という文を読んで、ミュージシャンをごくごく大雑把に二分法にかけると「演奏技術を重んじるタイプ(正統派)」(上記の文では「肉体労働派」)と「演奏技術よりトンチを重んじるタイプ(現代アート派)」(上記の文では「インテリ派」)に分かれるのではないかとカネゴン思い付く。紛らわしいのだけど、演奏がテクニカルかどうかだけでは区別できない。後者は「演奏技術に囚われてはならない」という命題に囚われているので、後者で演奏がうまい人はそのことを大事にしすぎないことに注意を払っている点が、前者で演奏がうまい人と異なる。
こういう視点でミュージシャンたちを見てみると、両タイプのミュージシャンは同じような業界に住んでいながら、互いにほぼ何の交流もなく、かといって憎しみ合うでもなく、まるで互いが存在しないかのように振舞っている。これは客も同じで、演奏技術に拍手するタイプと、トンチに拍手するタイプに分けられ、同じようなすれ違いが発生してしまう。こういう様子を見ると、ホップ数の多い少ないだけでは測れない距離があるように思えてしまう【思いはすれどおれカネゴン】。
今思い付いたのだけど、マルセル・デュシャンが好きかどうかを尋ねることで両者を簡単に区別することができる。身を乗り出して語り始めれば後者であり、「何ソレ?」または「え、あんなのがいいの?」という顔をしたら前者であることは即座に確定する。そして今のところ、この両者を同時に惹き付けることも、両者で頂点を極めることもたぶん不可能だと思う。遠い将来には両者が仲良くやっていける時代が来るのかもしれないけど、カネゴンそれまで生きていられるかどうか。