本屋で野崎先生の「不完全性定理」を見かけ、買って読もうとした寸前に、あることに気が付く。以前も似たようなことを書いていたけど、もう一度書く。
映画秘宝によると、勝新太郎は「無駄の中に宝がある」と言ったという。色川武大は「力士がみんな双葉山みたいになってしまったらさぞ味気ないだろう」と書いていた。
ところでカネゴンは年に一度ぐらいのペースで、論理的に完全な文法を備えた人工言語というものを妄想してしまう癖がある【年中行事のおれカネゴン】。論理的に完全なので、XMLパーサーみたいなもので検証することができ、それによって、1つの文章が1つの意味しか持たず、間違いが混入し得ない文章を作成できる。そこまで作れれば、そこから日本語や英語などに一意に自動翻訳することが可能になるのではないかと。
ところが、間違いが混入し得ない文章(というかその文法体系)というものが仮にできたとしても、そこには一つの重大な欠点がある。

○○は間違いです。

と、間違いというものをその文法体系の範囲内で記述することができなくなってしまう。XMLでおなじみのCDATAタグのように、間違いを記述する部分だけ体系の外に出してあげないと、記述そのものが行えない。

「このかっこの中→『○○』が間違いです」

のようにエスケープしてあげるしかなく、そうするとバリデーションの恩恵を受けようがない。
何というか、「間違いようのない何か」というものは、それが何であれ、そうなった瞬間からとんでもなく不完全で不十分なものになってしまう。その「間違いようのない何か」の表現力は、決定的に不足してしまう。「間違いようのない体系は、間違いを描写することもできない」という、いい国作ろう鎌倉幕府と同じぐらいストレートな原理だとしたらどうしよう。