科学者は本当に自然の美を愛し、人工の美を敬遠するものなのだろうか【あまのジャックのおれカネゴン】。
カネゴンは、この世には人工の美しかないとこっそり思っている。人工の関与しないナマの美というものは、見たくとも見ることができない(もし見てしまったら莫大な情報に押しつぶされて発狂する)。イスラエルの民が、敵に作戦がバレバレであっても旧約聖書から離れてものごとを考えることができないのと同じく、カネゴンたちは自分たちを型にはめ続けている文化から逃げ出すことはできない。
「型にはめる」ということは情報量を劇的に減らすということであり、それによってカネゴンたちは情報の消化不良に陥らずに済み、近隣の民族をひとくくりにして考えるという思考の節約を行うこともできる。
自然の美だと思い込んでいるものは、実は銭湯の富士山の絵やら葛飾北斎やらの経験があり、その経験に合致するものをたまたま美と呼んでいるということでいいだろうか。カネゴンたちは、空間的には目に映るものの構図やキマリ具合をついつい考えてしまい、時間的にはあらゆるものごとをついついストーリーに仕立ててしまう。