ADHDとかアスペルガーとか学習障害とか、窮地に陥ったときの言い訳に使えそうな病状が次から次に登場してはカネゴンを誘惑して苦しめる【燃えないゴミとおれカネゴン】。
そういうものを知るたびにカネゴンはもしやそういうナニなのではないかという考えが物凄い勢いで脳裏をよぎるのだけど、カネゴンは大変な見栄っ張りなのと、一度そういうものを認めてしまったらそれを言い訳にあらゆることを無限に怠けてしまいそうなのが怖くて、これまでまったく認めていない【怠けは変わらぬおれカネゴン】。
さらに、こういう病名で言い訳を繰り返してしまったら、日常の一挙一動にまでこの病状に沿ってしか物事を考えられなくなりそうなのがたまらなく恐ろしい。うまく言えないのだけど、ものを考えるときのフレームワークにこういうものを混入させたくない。
色川武大が生涯抱え込んだ「ゼッペキに関する劣等感」はその点実にうまく設定されていて、上記と一見似ているようでまったく異なる。
まず「ゼッペキ」というだけでどうにもキマらない、格好がつかないところがいい。「自分はゼッペキだから特別扱いしてね」などとという無言の厚かましい言い訳など成立しようもない。病気や身体の欠損などには、その病気や欠損自体の苦しみのほかに、そうした病気や欠損のことでいかにして回りを気重にさせないようにするかという問題も生じてしまう。むしろ病気や身体障害の一番やっかいな部分はこれなのだと思うのだけど、「ゼッペキ」という初期設定は、その点でかなりよくできている。
戦時中にサイパンで左腕を失った水木しげるは、結局そのことをまったく意に介していない。本人も「動作を二つに分ければ何でもできる。ネクタイを締めること以外なら。」と涼しく言ってのけているのだけど、伝記によるともう一つきっかけがあったらしい。復員後、同じように片腕を失った兵士をみかけたとき、彼はすっかり絶望していて二言目には「わしはテンボウになってしもうた、テンボウになってしもうた」とそればかり繰り返し、ああなってはいかんのだなと思ったのだそうだ【最も愚痴るおれカネゴン】。
そう考えれば、発達障害であろうと身体障害であろうと、それがあたかも特別パスであるかのように振舞うというのは、たぶん生きる戦略としても非常にまずい。日常生活に大きな支障が出るのであればともかく、それほどでなければそうした病状や障害を自分が何か考えるときの中心にはなるべく置きたくない【単なる逃避とおれカネゴン】。