奴隷主義者(=ほとんどの人間は奴隷としての幸せを追求すべきというか既にそうなっている、奴隷でない人は奴隷の分まで苦労と責任と孤独と非難と恥辱を背負うべきというか既にそうなりつつある)のカネゴンにはさっぱり理由がわからないのだけど、欧米の人々にとっては「自分に自由な意志がある」かどうかというのが何だかとても重要なことらしい。
かれこれ400年も前にぼくスピノザ先生が「自由でない(必然の)意志ならあるが自由な意志などない」「一見自由意志に見える現象は、単に身体がそれを欲しているだけだ(身体の奴隷になっている)」と第一ヒントでずばり本質を見抜いてゴンドラが2つ上がったことが今になって続々と裏付けられていることが、どうやら欧米の人々にとって何やら屈辱的かつ実に嫌な部分を衝いているらしく、日ごろ何一つ浮かばれることのないカネゴンの溜飲がナイアガラの滝のように轟音蹴立てて下がりまくる【ルサンチ男のおれカネゴン】。カネゴンは自分に自由意志がなくても痛くも痒くもないです。
いっそのことこれを機会に「意志」という言葉はすべて「欲望」に検索置換した方が未来の子供たちのためになると思うのだけど【常に「いっそ」のおれカネゴン】、それをやると意志と欲望を両方説明した文章の文意が通らなくなってしまうので、機能を持たないレガシー用語として意志という言葉を残すしかなさそう【骨も残らぬおれカネゴン】。