みなはどう思っているかわからないけど、カネゴンにはレッドツェッペリンの音楽はこれっぽっちもブルースと思えない【石持て追わるるおれカネゴン】。それ以上に、ブルースっぽいかどうかということは、レッドツェッペリンの音楽の異様さと完成度の高さについて何の関係もないとも思う。そして、ボーカルのロバートプラントはいつも苦し紛れに曲の間を埋めているだけだとも思っている(譜面にしたら何の意味もない歌しか歌っていない)。
「かっこよさ」は数学的対象となることをこの世の終わりまで拒むことが予想されるのだけど、その原因としてかっこよさは加法性を持たない(値を持たず、順位のみを持つ)ことが考えられる。人間の「馬鹿」という性質も、同様に加法性を持たないことはカネゴンの中でのみ思い知らされている【豊富に有するおれカネゴン】。ほかにも「エロさ」など、加法性を持たないがゆえに理論的研究を拒絶する分野はいくらでもある。
上でリンクしたツェッペリンのコピーでは、かっこよさが加法性を持っているはずだということを演奏者が無意識に前提としているがために、結果的にかっこ悪さが100倍増しとなってしまっている。かっこよさが加法性を持っているという思想に染められてしまったら、「これとこれができたら倍かっこよくなる」というかっこよさの加工貿易的思想でしか音楽に取り組めなくなる。ツェッペリンの音楽は、あのドラマーなしでは本人たちすら再現不可能という究極の再現不可能性により、かっこよさをテクニックで奪い取ろうとする者たちを未来永劫自動的に懲らしめるようにできている【こんな刑罰おれカネゴン】。