適者生存」という言葉はダーウィンが言ったのではなく、ダーウィンの「自然選択」をスペンサーが言い換えたものだということを初めて知る【適してないとはおれカネゴン】。

時に「適者=強者」と解されたり「弱肉強食」と言い換えられることもあるが、環境にもっとも適応した結果の適者なのであるので、「強い弱い」の価値尺度は意味がない。捕食者が「強」で被捕食者が「弱」であるという解釈も成り立たない。サバンナに住む肉食動物の俊足は草食動物を捕食するための武器であるが、同時に草食動物の俊足や警戒心は肉食動物を餓死させる(そして自ら生き延び、子孫を残す)ための武器である。現生の生物は環境への適応度という点について、みな等価であると言える。

つまり価値判断というものが全ての元凶ということでよいだろうか。本来価値判断は「好き」「嫌い」を感じた時点で完結するもので、そこから何の余韻も生じないし、せいぜいそれを表明するぐらいしかないはずなのに、人が自分の価値判断をありとあらゆる言葉で弁護して回っているがために科学と倫理がそれに引きずられてしまっているということだろうか。世の人々の脳という脳に価値判断を一切行えないようにする術式を施して回り、それが完了するまで真の平和は来ないということなのだろうか【使命に燃えるおれカネゴン】。

人工知能には例の1,2,3,たくさんと並んで、この価値判断こそ必要とされているのかもしれない。人工知能が「お前は死んでいい奴」などと見事に即断できる日が来たら、人類皆揃ってその御前に深々とかしずき、あらゆるプロパティを永遠に差し出して服従を誓ってもよいと彼らに約束しておきました。