考えてみれば、人が言葉を喋ったり書いたりするとき、普通は文法など意識しない。構文解析や辞書参照という正攻法で機械翻訳を構築しようとしても、スペルミスや意図的な言い間違いやダジャレに出くわしただけであっという間に結果が崩壊してしまう。
むしろ人は、ガンダム愛好家が常日頃からシャアのせりふをもじって会話せずにいられないのと同じように、欧米人が聖書のもじりをどこかに紛れ込ませずにいられないように、たいていの人が2ちゃんに書き込むときに実生活での立場や地位にかかわらず2ちゃん言葉を使わずにいられないように、何らかのテンプレートをダイナミックに一時修正しながら喋っているような気がする。テンプレートの種類が増え、テンプレートの粒度が高くなり、品のないテンプレートが矯正されるにつれ、おびただしい大小さまざまなテンプレートを次々に組み合わせてさらに巧妙で自然な文を組み立てたり場に合わせてテンプレートを使い分けられるようになってくるというだけだったりするのかもしれない。

もしかすると、まったく独創的な表現を除いて、カネゴンたちのすべての言葉は密かに引用符で囲まれているのかもしれない。

もしかするとダジャレとは、本来そこに合うはずのないテンプレートを無理やり適用することによって処理が一時的にアップアップし、それが巡り巡って腹の筋肉を揺さぶっているに過ぎないのかもしれない。その無理やりな適用自体がテンプレートとして学習されてしまうと、同じギャグを何度も聞かされているうちに怒りが湧いてくるような効果が生まれるのだとしたらどうしよう【何度もやるのがおれカネゴン】。ダジャレ名人とは、ありきたりでないテンプレートを見つけてそれを絶妙に適用することが殊の外うまい人ということになる。
ダジャレには、発見されやすいものと発見されにくいものがある。