ついでにWikipedia参照および加筆。

そのときの問答は有名である。たとえば、文殊が「どうしたら仏道を成ずることができるか」と問うと、維摩は「非道(貪(むさぼり)・瞋(いかり)・痴(おろかさ)から発する仏道に背くこと)を行ぜよ」と答えた。彼の真意は「非道を行じながら、それに捉われなければ仏道に通達できるということを意味している。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%AD%E6%91%A9

こういう教え方を何かと見かけるのだけど、何か具体例がないとどうにもぴんとこない。何らかの道を究めるには、俗っぽさと、どこかに馬鹿っぽさを大量に含んだひたむきさと、人の忠告に耳を貸さない頑固さが必要ということなのだろうか。無駄なことをしない合理的な人は、馬鹿っぽい道には最初から進まないし、その必要もないかわり、道を究めることもないということなのだろうか。
馬鹿に積極的な平和利用方法があるとしたら、もしかするとこれなのだろうか。馬鹿はどんなに物を知っても「物を知っている馬鹿」にしかなれず、特に米国式ビジネス社会ではやんわりと抹殺されるだけだとばかり思い込んでいたのだけど、馬鹿を無理やり直して先に進もうとするより、馬鹿という属性を生かすことを考える方がまだましということだろうか【何にもできぬおれカネゴン】。