小島先生の「数学でつまずくのはなぜか」を読んでて、数学教育において一番厄介なのはもしかすると「間違えてはいけない」という強迫観念だったりするのではないかと思いつく【豊富な間違いおれカネゴン】。
ところで、子供たちはまるで間違えることが罪ででもあるかのように間違いをいっせいにはやしたてて可能性の芽を片っ端から葬り去るものであり、要領よく間違えずに解答用紙を埋められる人が後に世渡り上手になるものだったりする【泥舟乗ったおれカネゴン】。
ところで、何か新しいものを創造したり形作ったりするには、少々の間違いやほつれなど気にせずずんずん先に進み、壁にぶち当たっても止まろうとしない馬鹿さ加減がブレンドされていることが往々にして必要だったりする。
ところで、世の中は世渡り上手だけでもうまくいかず、クリエイティブで雑な人たちだけでもうまくいかず、両方いて互いに利用しあって何とかバランスを保っているのだろうか。世渡り上手だけで固めた県とクリエイティブで雑な人たちだけを固めた県を作り、どっちの県が長持ちするかを観察することでこれを検証しようという勇者の登場が待たれる。
ところで、昔誰かが「アルファベットは26文字ではありません。文字と文字の間のスペースがないと成立しないのだから、スペースも含めて27文字です」と書いていた。
ところで、メールの90何%はスパムなどの無意味なメールらしいのだけど、届くメールが全部自分にとって重大な意味があるものだったら大変疲れてしまうような気がする。
ところで、記号の配置の可能性としては、たとえば1=2や100<1のように間違っている配置の可能性の方が、間違っていない可能性よりも断然多いことは容易に想像がつく。まるで、自然数と無理数では圧倒的に無理数の方が多いことにも似て、無意味になる可能性が圧倒的に高いからこそ、意味のある記号の配置が成立するということはないだろうか。有意味が富士山の頂上のほんの先っちょの部分で、無意味がその下のすべての土砂岩石であるかのように、圧倒的多数の無意味がないと有意味がその高さを保てなかったりするだろうか。
ところで、この世のあらゆる悪人がある日突然一人残らず清く正しい人たちばかりになったとしたら、または今はそうでなくても10年後ぐらいにそうなってしまうことが確実だとしたら、皆お互いに対してどんなことを思うだろう。
ところで、この世のあらゆる馬鹿がある日突然一人残らず究極に賢い人々になったら、または今はそうでなくても十年後ぐらいにそうなってしまうことが確実だとしたら、皆お互いに対してどんなことを思うだろう。
ところで、たとえば1=2のような間違いはそれ自体に意味がないのだけれど、「間違いの集合」と「間違っていないものの集合」の関係を考えている間ぐらいは、間違っているものにも意味を見出せてしまう。何とかして「間違い空間の方が豊穣」というふうに持っていきたいのだけど、どなたか勇者が手伝ってくれたりしないだろうか。
ところで、「あらゆる間違いの集合」は「あらゆる集合の集合」の次ぐらいに巨大な空間だったりするだろうか【強弁止む無しおれカネゴン】。