匂い(臭い)も、言葉とまったく同じように文脈や状況に強く依存するような気がする【足りぬ睡眠おれカネゴン】。トイレでそれなりの臭いが立ちこめることについては誰も疑問に思わないのに、職場で同じ臭いが漂い始めるとたちまち大騒ぎになるように【もしや今でもおれカネゴン】。
さまざまな匂いを自由自在に発生させる装置みたいな、古いSFにありがちなコンセプトが未だにさっぱり発展しないのは、いったん装置から発した匂いが簡単に消えてくれない、残留性という根本的な問題もさることながら、臭いというものがその場の状況や文脈に常に強く依存しつづけたせいもあるのかもしれない。
仮に世界中の女子中学生女子高校生の衣服を大量に収集し、そこからいい匂いのエッセンスを蒸留抽出して濃縮しても【計画するとはおれカネゴン】、衣服から離れたところで単にそうした香りがするだけでは意外にピンとこなかったりするのかもしれない。いずれにしろ、嗅覚は映像(視覚)や音(聴覚)やその上でやりとりされる言葉と比べると反応性も自由度も非常に低いことだけは確か。
何で読んだのか忘れたのだけど、糞便の臭気の元となるインドールスカトールは、実はコーヒーのよい香りの正体でもあり、薄めるとむしろ花の香りになるのだそうだ。
そうした嗅覚機能を根底から覆すような思いもよらない画期的な技術が登場して、匂いDJが匂いを自由にリミックスしてウルトラ細かい16ビートで激しく切り替えることができるようになったら、それだけでナチュラルトリップしてしまったり、新しいおもてなしの技法として冠婚葬祭の場に定着したりするだろうか【線香一本おれカネゴン】。