カネゴンは本物の天使に会いました【天国目指すおれカネゴン】。

カネゴンくん。私ね、自分が生まれるよりほんの少し前の頃の白黒のニュース映画とかで、当時の日常の風景を観ると、とっても安心するの。
まだ私がこの世に影も形もないような頃に、みんながお弁当を食べたり運動会をしたり、そういうのを見ると、ああ、自分がこの世にいなかった頃から、みんなちゃんとやっているんだなって、思っちゃうの。だから、私がいつの日かこの世からいなくなっても、きっと大丈夫なんだなって。

たぶんその逆の例として、大昔に心理学の本か何かでこんなエピソードを見かけたことがある。

ある小さな子供が、柱にかかっていた日めくりカレンダーを夢中になってめくっていた。めくってめくって、最後に12月31日をめくると、そこには何もなかった。
途端に子供は底知れない恐怖に襲われてパニックになり、何日も怯え続けて、両親がどんなに説明しても納得しなかった。

【堕天の使徒とはおれカネゴン

実音のところでリンクしたボーカロイドたちのめくるめく音と映像の世界を眺めていると、ふとこの世界にやくざの匂いがまったくしないことに気付いた【どうでもよいとはおれカネゴン】。
振り返ってみれば、昭和の歌謡曲はその世界を取り仕切っていたやくざというフィルターが常にかかっていた。やくざが感心しないものは決して歌謡曲にならなかった。特に女性アイドルは、ほとんどの場合男の視線に忠実な歌ばかり唄っていたし、特撮オープニング音楽も、女の子向けとなると途端にどうしようもなく適当なものになっていたりした。
財布の紐を握っていた女性が当時はあまり多くなかったせいなのか何なのか、当時の歌謡曲では、購買層としての女性はひどく概念的な形でしか業界に理解されていなかった。たぶんユーミンあたりで初めて、女性層という鉱脈が掘り当てられたのかもしれない。
かつて矢沢永吉は、やくざとかかわるのが嫌で音楽の事務処理を全部自分でやっていたそうなのだけど、そんな矢沢永吉が夢見た、やくざのいない音世界がこんな形で実現すると誰が思っただろうか。音世界からはやくざが消え、その代わりに霊現象としての荒らしがどっかと座り込んで当分どこにも行きそうにない【荒らしも来ないおれカネゴン】。