実音のところでリンクしたボーカロイドたちのめくるめく音と映像の世界を眺めていると、ふとこの世界にやくざの匂いがまったくしないことに気付いた【どうでもよいとはおれカネゴン】。
振り返ってみれば、昭和の歌謡曲はその世界を取り仕切っていたやくざというフィルターが常にかかっていた。やくざが感心しないものは決して歌謡曲にならなかった。特に女性アイドルは、ほとんどの場合男の視線に忠実な歌ばかり唄っていたし、特撮オープニング音楽も、女の子向けとなると途端にどうしようもなく適当なものになっていたりした。
財布の紐を握っていた女性が当時はあまり多くなかったせいなのか何なのか、当時の歌謡曲では、購買層としての女性はひどく概念的な形でしか業界に理解されていなかった。たぶんユーミンあたりで初めて、女性層という鉱脈が掘り当てられたのかもしれない。
かつて矢沢永吉は、やくざとかかわるのが嫌で音楽の事務処理を全部自分でやっていたそうなのだけど、そんな矢沢永吉が夢見た、やくざのいない音世界がこんな形で実現すると誰が思っただろうか。音世界からはやくざが消え、その代わりに霊現象としての荒らしがどっかと座り込んで当分どこにも行きそうにない【荒らしも来ないおれカネゴン】。