日本人がフセイン大統領の息子と会談。これが本当ならすごい。ここで述べられているハリウッド映画史観にはカネゴンもうなずくこと多々あり。

ハリウッド映画を見ていてあるとき突然気がついた。考えれば当然のことなのだけど、どう転んでも「アメリカ合衆国」を最終的には賛美するようにできている。たとえ一見アメリカ合衆国の暗部を告発するような堅苦しい映画ですら、「こういう自己批判ができるおれたちは素晴らしい」という言い訳なのではないかと思ったりなんかしてしまう。こんなこと今更カネゴンが言うことでもないのですが。

一番それを痛感したのは映画「ナーズの逆襲」だった。大量に登場するメガネ君(および心にメガネをかけてしまった人たち)が体育会に逆襲する痛快な話なのに、最後に「ナード(メガネ君)にだって人権がある!」などとゲチスバーグ演説まがいのことを主張していたのだ。はっきり言って、ひいてしまった。そう思って見ると、ほぼすべてのハリウッド映画がそういう視点からできている。これは別に国の方針がどうのこうのではないと思う。自分の立場からだけものを考えればそうなるようにできているのだから。とにかくこんな映画にまで無意識にアメリカ賛美が刷り込まれているのには驚かされてしまった。

だから、「マーズ・アタック」と「スターシップ・トルーパー」はその点でものすごく画期的だった(カネゴンにとっては)。ハリウッドとしてはきっとこんな映画を売り出したくなかったと思う。この二つの映画に登場するアメリカ合衆国にこれっぽっちもいいところなしなのだ。遠まわしの賛美も正当化も、かけらも見当たらない。「スターシップ・トルーパー」の監督はオランダ人だから、こうなったのだろうか(カネゴン威勢がいいのう)。

ついでに書くと「マーズ・アタック」を見た人の大半が「何が何だかさっぱりわからない」「不条理だ」という感想を抱いていたらしい。カネゴンにとってはこんなわかりやすい映画はないというぐらいわかりやすかった。この映画は「ティム・バートンの嫌いな奴から順に死に、ティム・バートンの好きな奴だけが生き残る」話だった。あの映画で生き残ったのはそういう人たちだけだ。なお、ジャック・ニコルソン(大統領役)については「嫌いだから殺した」のではなく、「死ぬ演技があまりに面白いから」それが見たくて殺したんだと思う。岸田森の先にはジャック・ニコルソンありき。

そう思うと「アンブレイカブル」は藤子・F・不二雄の短編「○○○○・○○○○・○○○○○○○」に合衆国賛美を無理やりくっつけて台無しにしてしまったような気がする(そう思うのはカネゴンだけでは)。あの短編にもう少し忠実にやったら「スターシップ・トルーパー」に続いたかもしれないのに(無茶言うなおれカネゴン)。合衆国的にはすごく嫌がられると思うけど。