平田弘史は大好きで、つい読んでしまう。まず婦女子に受けそうにないというか、婦女子を逃散させようという意図すら感じさせる男臭い絵柄がよい。しかもシンセサイザーの多重録音という意外な趣味と、Photoshopにも夢中になる一途さ。そして連載が過密になるとたちまち荒れる描線。「おのれらに告ぐ」「つんではくずし」以外の(やや)メジャーな作品はたいてい読んだと思う。

しかしファンクラブに入りたいかと言われると考える(何と切腹経験あり!と書かれている)。カネゴン平田弘史の読み方が自虐的なのかもしれないが、ストーリーのほとんどは勤め人つまりサラリーマンとしての武士を描くことに終始していて、江戸時代の武士はある意味現代以上にサラリーマンとしての悲哀を味わい尽くしていることがよくわかる(前にもこんなこと書いたような気がする)。

知ってか知らずか、平田弘史は「生命力」についてものすごくこだわりを持っているように見える。登場人物はほとんどが生命力旺盛で、そのために(整いつつある)武士社会と衝突して葬られる。一部の例外を除いて女は男汁(だんじゅう)ほどぱしる男にやられるために存在している。こういう生命力は、システムが整った時点で用なしと考えられることが多いが、戦国の世の中と現代でそんなにがらりと人間の身体が変わるわけでもなし、こういう(一見始末に困る)生命力は、へなちょこなカネゴンの中にすらどこかにたぎっている。社会制度が整ったからといって、生命力を急に減らすことができるわけもなく、当時の武士は現代では暴走族またはヤクザ・博徒に姿を変えて長らえ、花と散る。公私に渡ってパソコンに向かっていても、カネゴンを「パソコンに向かわせる力」というのは敵をぶった切る獣的な生命力の一部が形を変えて顕れていると勝手に信じている【おれカネゴン語りすぎじゃ】。

上のリンクで平田弘史をリスペクトしている叶精作も、下着雑誌のトレースのような洗練された今の絵よりは、平田弘史に通じるデビュー間もないころの恐ろしく泥臭い絵の方がよかったような気もする。セーラー服を着た女子高生が、どう見ても熟れた人妻が無理やり制服を着ているようにしか見えなかった絵の方が【カネゴンは劇画が好きじゃのう】。

若き日の平田弘史は意外にもラジオと電子回路に明け暮れ、アキバ通いまでし、捨ててあったテレビをハックすらしていたらしい。ますますファンになる。生命力の顕れ方には様々なものがあることを痛感。